深宇宙通信工学
想定読者: 電気・情報系の学部卒業程度の知識で、宇宙機通信系の設計・試験・運用の実務に入る若手技術者。
構成: 第I部から順に読めば前提が揃うように配列した。第VI部まで通読後は、目次から辞書的に引く使い方を想定している。各章末の「まとめ」だけを先に拾い読みして全体像を掴む読み方も有効である。
記法: log は常用対数 log₁₀、dB表現の定義は第1.2章による。式中の記号は初出時に定義し、巻末の付録Bにも収録した。数値例はすべて計算コンソールで再現できる。
注意: 本文の数値は設計初期の目安である。実設計では対象ミッションの正式諸元とCCSDS/JERG/ITU-R原文書に必ず拠ること。
第1.1章深宇宙通信システムの全体像
探査機の通信系が何をする装置なのか、機体側・地上側がそれぞれどんな機器で構成されるのか、 そしてなぜ深宇宙通信が「特別に難しい」のかを掴む。以降の全章の土台になる。
1.1.1 通信系の3つの仕事
探査機の通信系の仕事は3つある。テレメトリ(機体の状態や観測データを地上へ送る)、 コマンド(地上からの指令を受け取る)、そして電波計測(電波の往復時間や周波数の変化から、 探査機の距離と速度を測る)である。3つ目は意外に思えるかもしれないが、探査機の軌道は 通信用の電波そのものを「ものさし」として決定されており、通信系は航法センサでもある。 これら3機能を合わせて TT&C(Telemetry, Tracking and Command)と呼ぶ。
1.1.2 何が難しいのか — 距離の2乗
電波は距離の2乗で薄まる。地球周回衛星(数百〜数万km)に対し、火星は数億km。 距離が10⁴倍になれば受信電力は10⁸分の1、つまり80 dBも小さくなる。 深宇宙通信の技術体系はすべて、この極端に微弱な信号をどう受け、どう使い切るかの工夫である。
火星が1.6 AU(2.4×10⁸ km)にあるとき、電波の往復には約27分かかる。 「コマンドを送って応答を見る」だけで30分待ちである。地上からのリアルタイム操縦は不可能で、 探査機は自律動作し、地上は計画的に交信する——この運用形態も通信系の設計条件になる。
1.1.3 機体側の構成
| 機器 | 役割 |
|---|---|
| トランスポンダ | 受信機と送信励振部が一体になった深宇宙通信の中核装置。地上からの搬送波に位相同期し、その周波数を正確な整数比(ターンアラウンド比、X帯では880/749)で逓倍して下り搬送波を作る。この「位相のつながり」が精密計測を可能にする(第2.3章)。 |
| 電力増幅器 | TWTA(進行波管、効率50〜65%)またはSSPA(固体)。深宇宙機で20〜200 W級。 |
| 高利得アンテナ HGA | 口径1〜4 mのパラボラ。主データ伝送用。地球方向への指向が必要。 |
| 中・低利得アンテナ MGA/LGA | ビームが広く、姿勢が乱れても通信できる。LGAはほぼ全方向をカバーし、非常時の生命線となる。 |
| ダイプレクサ・スイッチ | 1本のアンテナで送受信を同時に行うための分波と、アンテナ切替。 |
1.1.4 地上側の構成
地上局は「大口径・極低雑音」で機体側の非力さを補う。NASA深宇宙ネットワーク(DSN)の 34 m・70 m局、JAXAの臼田64 m局(S/X帯)・美笹54 m局(X/Ka帯)が代表である。 受信性能はG/T(アンテナ利得÷システム雑音温度。第1.2・1.4章)で表され、 X帯34 m級で50 dB/K強、70 m級で60 dB/K程度に達する。送信は20 kW級の大電力を備える。
1.1.5 周波数帯
ITUは地球から2×10⁶ km以遠を「深宇宙」と定義し、専用の周波数帯を割り当てている。
| 帯域 | 上り | 下り | 使いどころ |
|---|---|---|---|
| S帯 | 2110–2120 MHz | 2290–2300 MHz | ビームが広く天候に強い。利得は低い。非常系・旧来機。 |
| X帯 | 7145–7190 MHz | 8400–8450 MHz | 現在の主力。利得・耐候性・技術成熟度の均衡が良い。 |
| Ka帯 | 34.2–34.7 GHz | 31.8–32.3 GHz | 同じアンテナで約12 dB高利得。ただし雨に弱く指向がシビア。大容量伝送用。 |
同じ口径なら利得は周波数の2乗で増える(第1.3章)。この魅力とひきかえに、 Ka帯では降雨減衰(第1.5章)と指向精度が設計の中心課題になる。 「基幹はX帯、大容量データはKa帯」が現在の標準構成である。
なお、これらの帯域を実際に「使う権利」を得るための国際調整・免許の手続きは第6.2.9項で述べる。
1.1.6 回線の形態: 1-way / 2-way / 3-way
1-wayは探査機が自分の発振器を基準に勝手に送信する形態。 2-wayは地上局の上り搬送波に探査機がコヒーレントに(位相を保って)応答し、同じ局が受信する形態で、 地上の水素メーザという超高安定周波数標準を「ものさし」にできるため、精密計測はほぼ2-wayで行う。 3-wayは送信局と受信局が別の2-wayで、往復数十分の間に地球が自転して送信局から見えなくなる場合に使う。
1.1.7 規格の地図
この分野は国際標準が整備されている。変調はCCSDS 401、テレメトリ符号化は131、 コマンドは231/232、測距は414が該当し、JAXAの設計標準(JERG)はこれらを引用して設計判定基準を与える。 地上局との取り合いはDSN 810-005等の局文書による。設計値の最終確定は必ず原文書で行う—— 本書は「原文書が読めるようになるための地図」である。
1.1.8 信号の旅 — 送信から復調までの全体図
以降の章の見取り図として、テレメトリ1ビットが地上に届くまでの経路を追う。
この鎖のどこか1箇所でも切れると通信は成立しない。回線計算(第1.2章)は この鎖全体をエネルギーの収支として1枚で点検する道具であり、 捕捉・追尾(第2.3章)は鎖の中で最初に確立すべき「同期の入口」である(図1.1-1)。
1.1.9 機体と地上の非対称性
深宇宙リンクの著しい特徴は送受の非対称である。地上局は口径34〜70 m・送信20 kW・ 雑音温度20 Kという潤沢な資源を持つが、探査機は口径数m・送信数十W・雑音温度数百Kに制約される。 このため上り(地上→探査機)は電力で押し切れるが、下り(探査機→地上)が常に設計の律速になる。 下りのビットレートがミッションの科学成果量を直接決めるため、通信系設計の努力は ほぼ下り回線の1 dBを削り出すことに向けられる。
1.1.10 よくある疑問
Q. なぜ光(レーザ)ではなく電波を使うのか?
A. 光通信は波長が5桁短く、同じ開口で桁違いの利得が得られるため、 将来の大容量下りとして実証が進んでいる(深宇宙光通信)。ただし雲で完全に遮断される、 指向がµrad級で困難、地上局インフラが未整備という運用上の壁があり、 当面は「電波が基幹、光が増強」の関係である。本書は電波リンクを扱う。
Q. 深宇宙で「帯域幅」は不足しないのか?
A. 割当帯域(X帯下り50 MHz等)に対し、深宇宙のデータレートは低く、 帯域より電力が常に律速である。このため深宇宙では帯域効率(bit/s/Hz)より 電力効率(要求E_b/N_0)を優先した方式(低符号化率のTurbo等)が選ばれる。 地球周回の高速リンクとは設計思想が逆になることに注意。
- 通信系の仕事はテレメトリ・コマンド・電波計測(航法)の3つ。
- 深宇宙の本質的困難は距離の2乗で薄まる電力。地球周回比で80 dB以上不利。
- 機体はトランスポンダ+増幅器+HGA/LGA、地上は大口径・極低雑音局で分担する。
- 精密計測は地上基準に位相同期する2-wayで行う。
- X帯が基幹、Ka帯が大容量。規格はCCSDS/JERG/局文書。
第1.2章リンクバジェットの原理
「この距離・このアンテナ・このレートで通信は成立するか」に答える計算がリンクバジェット(回線計算)である。 たった2つの物理法則——電波は球面に広がる、あらゆる受信機は熱雑音を持つ——から全体を導く。
1.2.1 送った電力はどこへ行くのか
送信機の電力 P_t をアンテナで一方向に集中させる。その集中度がアンテナ利得 G_t で、 積 EIRP = P_t·G_t を等価等方放射電力と呼ぶ。放たれた電波は距離 d まで進むと、 半径 d の球面全体に薄く分布している。球の表面積は 4πd² だから、1 m²あたりに流れる電力(電力束密度)は
である。エネルギーは失われておらず、広い面積に薄く分布しただけである。この「薄まり」が回線計算に現れる巨大な損失項の正体だ。
1.2.2 受信電力と自由空間損失
受信アンテナは面積で電力を受け止める。その実効面積 A_e は利得 G_r と
の関係にある(λ: 波長。この関係はどんなアンテナでも成り立つ一般定理である)。 受信電力 P_r = S·A_e に上の2式を代入して整理すると
となる。L_FS が自由空間伝搬損失である。「高い周波数ほど損失が大きい」ように見えるが、 これは同じ利得のアンテナが高周波ほど小さい(=受け止め面積が小さい)ことの現れであり、 空間が電波を吸収しているわけではない(図1.2-1)。
1.2.3 ノイズフロア — kT
どんな受信系にも熱雑音がある。物理学(ナイキストの定理)によれば、温度 T の系は 1 Hzあたり kT ワットの雑音を発生する。
T_sys は受信系全体の実効温度=システム雑音温度(第1.4章で詳述)。 信号がどれだけ弱くても、この床より十分上にあれば通信できる。 回線計算に現れる定数 228.6 dB は −10log₁₀k のことである。
1.2.4 回線方程式
掛け算・割り算をdB(10log₁₀)の足し算・引き算に直すと、回線方程式が得られる。
C/N_0 は「搬送波電力と雑音密度の比」で、帯域の取り方に依存しない共通通貨である。 L_atm は大気・降雨(第1.5章)、L_point は指向誤差(第1.3章)、L_pol は偏波不整合(第1.3章)の損失。 G/T は受信局の性能指数で、利得(dBi)から雑音温度(dBK)を引いた1つの数に受信性能が集約される。
データレート R_b [bps] で送るとき、1ビットに使えるエネルギーは信号電力の 1/R_b だから
となる。レートを10倍にすると1ビットあたり10 dB苦しくなる——これがリンク設計の根本トレードオフである。 受信 E_b/N_0 が、使う誤り訂正符号の要求値(第2.2章)を上回っていれば通信は成立し、その差が回線マージンである。
距離1.6 AU、送信100 W+アンテナ40 dBi(EIRP = 60 dBW)、f = 8.425 GHz、受信局 G/T = 52.7 dB/K、 大気0.5 dB・指向偏波0.4 dBとする。
L_FS = 20log₁₀(4πd/λ) = 278.5 dB
C/N_0 = 60 − 278.5 − 0.9 + 52.7 + 228.6 = 61.9 dBHz
100 kbps(=50 dB)を送ると E_b/N_0 = 11.9 dB。Turbo符号の要求値1.0 dBに対しマージン+10.9 dB。 この回線はまだ余裕があるので、レートを8倍の800 kbpsに上げても+1.9 dBのマージンが残る。
1.2.5 不確かさとマージンの3値
表の各項目は完璧には分からない。アンテナ利得には測定誤差があり、大気は変動する。 そこで実務では各項目に公称値と有利側・不利側のトレランスを持たせ、3種類のマージンを併記する。
全項目が同時に最悪へ振れることは確率的にまず起きない。統計学では独立な誤差は分散(2乗)で加算されるため、 2乗和平方根(RSS)で合成した M_RSS を設計判定に使うのが JERG/NASA 共通の実務である。 判定基準(例: M_RSS ≥ 0 かつ M_nom ≥ 3 dB)はプロジェクト規定による。
1.2.6 dB演算に慣れる
回線計算はdBの足し算である。次の対応を覚えると暗算で見積れるようになる。
| dB | 倍率 | 覚え方 |
|---|---|---|
| 3 dB | 2倍 | 電力2倍・距離1/√2 |
| 6 dB | 4倍 | 距離半分で+6 dB(2乗則) |
| 10 dB | 10倍 | レート1桁=10 dB |
| 20 dB | 100倍 | 距離1桁=20 dB(2乗則) |
例えば「距離が2倍になると受信電力は?」→ 距離2倍=+6 dBの損失。 「レートを1/10にすればE_b/N_0は?」→ +10 dB。 この2つの感覚——距離は20 dB/桁、レートは10 dB/桁——だけで、 リンクのトレードの大半は頭の中で概算できる。
1.2.7 上り回線と下り回線の計算の違い
回線方程式そのものは上下対称だが、代入する値と要求が大きく異なる。
| 項目 | 下り(TLM) | 上り(CMD) |
|---|---|---|
| EIRP | 探査機: 60〜70 dBW級 | 地上局: 100〜115 dBW級(20 kW+67 dBi) |
| 受信G/T | 地上局: 50〜60 dB/K | 探査機: −10〜+10 dB/K(小口径・Tsys数百K) |
| データレート | 数kbps〜数Mbps(成果を最大化) | 数十〜数kbps(確実性を最優先) |
| 要求値 | 符号化後E_b/N_0(1 dB級) | CLTU棄却確率から逆算(12 dB級、第2.5章) |
上りはEIRPの余裕が大きいため、通常は成立が容易である。ただし非常時 (探査機がLGA受信・姿勢不定)には上りも厳しくなるため、その条件でも コマンドが通ることを必ず確認する(第5.1章)。
1.2.8 回線計算書の読み方
実務の回線計算書(設計制御表)は、本章の式を1行1項目に展開した表である。 読むときの要点は3つ。①どの行が支配的か(通常はL_FSが最大、次いでG/TとEIRP)。 ②どの行に不確かさが集中しているか(大気・指向・実装損失が常連)。 ③要求値の出典は何か(符号・BER要求・変調損失の前提が別表と整合しているか)。 数字の羅列ではなく「どこを攻めれば1 dB稼げるか」を読む道具である。
1.2.9 S/N・C/N・C/N₀・Eb/N₀ — 単位の文法
回線の議論が噛み合わない原因の大半は、SNRの「分母の帯域」が揃っていないことにある。 定義を一度整理する。
| 量 | 単位 | 定義 | 使いどころ |
|---|---|---|---|
| C/N₀ | dBHz | 搬送波(信号)電力÷雑音電力密度 | 帯域に依存しない回線の共通通貨 |
| C/N(S/N) | dB | ある帯域Bの中での電力比。C/N = C/N₀ − 10logB | 帯域を明示して初めて意味を持つ |
| Eb/N₀ | dB | 1ビットあたりエネルギー比。C/N₀ − 10logR_b | 誤り率と符号の議論(第2.2章) |
| Es/N₀ | dB | 1シンボルあたり。Eb/N₀ + 10log(チャネルbit/シンボル) | 復調器・シンボル同期の議論(第2.4章) |
| ρ(ループSNR) | dB | P_c/N₀ − 10log(2B_L) | 搬送波追尾の品質(第2.3章) |
変換の連鎖を一度手で追うと迷わなくなる。C/N₀ = 50 dBHzのとき: 1 kHz帯域でのC/Nは 50 − 30 = 20 dB。レート1 kbpsならEb/N₀ = 50 − 30 = 20 dB。 ループ帯域10 HzのPLLならρ = 50 − 13 = 37 dB。同じ回線でも、どの帯域で切るかで 「SNR」の数字は30 dB以上違って見える——だから深宇宙の文書はC/N₀(dBHz)を 共通通貨にする。
もう一つの混乱源は「C」の中身である。残留搬送波方式では、全受信電力P_Tと 搬送波成分P_cは変調損失のぶん異なる(第2.1章)。回線計算書でC/N₀と書かれた行が P_T/N₀(全信号)なのかP_c/N₀(搬送波ライン)なのかは必ず確認する—— スペアナの測定(第5.4.1節)と突き合わせる際に最初に効いてくる区別である。
1.2.10 よくある疑問
Q. なぜC/N(信号対雑音比)でなくC/N_0を使うのか?
A. C/Nは帯域Bを決めないと定義できない(N = N_0·B)。 帯域の取り方は受信機実装に依存するため、システム間で比較できる帯域非依存の C/N_0 [dBHz] を共通通貨にする。必要になった時点で 10log₁₀B を引けばC/Nに、 10log₁₀R_b を引けばE_b/N_0になる。
Q. マージンはいくつあれば安心か?
A. 一律の正解はないが、考え方は明確である。RSSマージンは 「不確かさを統計的に吸収した後の残り」なので0以上が成立条件。 公称マージンには経年劣化・運用の想定外を吸収する余裕(数dB)を持たせる。 逆に10 dBを超える公称マージンは「レートを上げられるのに捨てている」 可能性を意味し、過剰マージンも設計ミスである。
Q. EIRPを上げるには送信電力とアンテナのどちらを増やすべきか?
A. dB上は等価だが、コストが違う。送信電力は電源系・熱設計に波及し、 効率60%のTWTAでも半分近くが熱になる。アンテナ径は質量・展開機構・指向精度要求に波及し、 利得+6 dBは口径2倍を意味する。さらにビームが細くなり指向損失リスクが増える。 実際の設計は両者と符号化(第2.2章)の三つ巴の最適化である。
- 受信電力は「EIRP ÷ 球面拡散 × 受信開口」。L_FS は幾何であって吸収ではない。
- ノイズフロアは N_0 = kT_sys。228.6 dBはボルツマン定数の対数。
- C/N_0 が共通通貨。レート10倍 = E_b/N_0 が10 dB低下。
- マージンは公称・最悪・RSSの3値で評価し、判定はRSSで行う。
第1.3章アンテナ
アンテナ利得はどこから生まれ、何とトレードされるのか。利得・ビーム幅・指向損失・偏波という 回線計算の4項目を、回折という1つの物理でつなげて理解する。
1.3.1 利得は「絞り込み」である
アンテナは電力を増やさない。全方向へ均等に放射する場合(等方放射)に比べ、 一方向へ何倍濃く放射するかが利得である。口径 D の円形開口アンテナでは、 波の回折により、ビームはおよそ λ/D ラジアンより細く絞れない。 ビームの立体角が (λ/D)² に比例して小さくなる分だけ利得が上がり、
となる。η は開口効率(鏡面誤差・ブロッキング等による目減り。実用値0.55〜0.75)。 重要なのは「波長を単位として測った口径」の2乗という構造である。 同じ34 mでも、X帯(λ=3.6 cm)では D/λ ≈ 950、Ka帯(λ=9.4 mm)では約3600になる。
1.3.2 ビーム幅と指向損失
半電力ビーム幅(利得が3 dB落ちる全角)は回折限界から
である。ビームの中心付近はガウス関数でよく近似でき、そのテイラー展開から、 狙いが θ だけずれたときの損失は
となる。ビーム幅の半分ずれるだけで3 dB(電力半分)である。 34 m局のKa帯ビームはわずか0.018°——高利得の代償は指向管理であり、 Ka帯運用では局の追尾精度・機体の姿勢制御精度が回線成立の前提になる(図1.3-1)。
1.3.3 近傍界と遠方界
アンテナから距離 d_F = 2D²/λ(フラウンホーファ距離)より遠方でないと、 波面が平面とみなせず利得は定義通りに働かない。34 m・X帯で約65 km。 このため大型局の利得較正は電波星(カシオペアA等)を基準に行う(第5.1章)。
1.3.4 偏波
電波の電界の振動方向が偏波である。探査機は姿勢が変わるため、向きに依存しない円偏波 (右旋RHCP/左旋LHCP)を使う。実際のアンテナの偏波は完全な円ではなく楕円で、 その「つぶれ具合」を軸比 AR [dB] で表す。送受アンテナの軸比を電圧比 a, b、楕円長軸のなす角を θ とすると、 不整合による損失は
(複号: 同旋+、逆旋−)。軸比1〜2 dBの実用機同士なら0.1 dB程度の小さな項だが、 円偏波と直線偏波の組合せでは3 dB、逆旋同士ではほぼ通信不能になる。 回線計算では L_pol として計上する。
1.3.5 アレイ合成
N 基のアンテナの受信信号を位相を揃えて足すと、信号電圧はN倍(電力N²倍)、 雑音は無相関なので電力N倍になり、SNRはN倍——利得換算で 10log₁₀N dB 向上する。 DSNは34 m局4基の合成で70 m級の受信能力を実現している。 巨大な単一鏡の建設限界を超える手段として、また既存資産の柔軟運用としてアレイは重要である。
1.3.6 開口効率ηの内訳
η = 0.7とは「理想開口の70%しか働いていない」という意味である。主な目減り要因は、 ①照射分布(鏡面の縁を弱く照らすとサイドローブは下がるが実効開口が減る——意図的な設計妥協)、 ②スピルオーバ(給電ホーンの放射が鏡面からはみ出す分)、 ③ブロッキング(副反射鏡や支柱が開口を遮る分)、 ④鏡面誤差(理想放物面からのずれ。Ruzeの式により利得低下は exp[−(4πε/λ)²]、 ε: 鏡面誤差RMS)。④は波長に対する誤差なので、同じアンテナでも高周波ほどηが下がる。 Ka帯で使える大型鏡面の製作が難しいのはこのためである。
1.3.7 サイドローブと雑音・干渉
アンテナパターンは主ビームの外にも小さな感度の山(サイドローブ)を持つ。 サイドローブは①地面の290 K放射を拾ってT_sysを悪化させ(第1.4章)、 ②他システムとの干渉の入口になる。局の低仰角運用でT_sysが増えるのは、 サイドローブが地面を見る割合が増えるからである。
1.3.8 探査機側アンテナの特殊事情
機上アンテナには地上局と違う制約がある。打上げフェアリングに収まる寸法 (大型なら展開式)、軌道上の熱変形(±100℃超の温度差での鏡面精度維持)、 そして指向の手段である。HGAの指向は、機体ごと向ける(姿勢制御と観測の競合)、 2軸ジンバルで振る(機構の信頼性)、電子的に振る(フェーズドアレイ)のいずれかで、 ミッションの運用構想に直結する設計判断になる。
1.3.9 よくある疑問
Q. dBiの「i」とは何か?
A. isotropic(等方)の i。等方放射器を0 dBとした利得表示である。 ダイポール基準(dBd)とは2.15 dBずれるため、基準の確認は必須。宇宙通信ではdBiが標準。
Q. ビーム幅の式の「70」はどこから来るのか?
A. 一様照射の円形開口の理論値は58.9λ/D度だが、実際のアンテナは 縁を弱く照らす(テーパ照射)ためビームがやや太り、経験的に65〜75になる。 70はその代表値である。係数の細部より「λ/Dに比例する」構造が本質。
Q. 楕円偏波の軸比はなぜdBで書くのか?
A. 楕円の長軸/短軸の電圧比を20log₁₀したものが慣習。完全円偏波で0 dB、 直線偏波で∞ dB。アンテナ仕様書では「AR ≤ 2 dB(ビーム内)」のように上限で規定される。
- 利得 = 絞り込み倍率 = η(πD/λ)²。「波長で測った口径」の2乗。
- ビーム幅 ≈ 70λ/D度。指向損失は12(θ/θ_3dB)²で、半分ずれて3 dB。
- 高周波化は高利得と引き換えに指向管理を要求する。
- 円偏波を用い、軸比から偏波損失を計算して計上する。
- N基アレイでSNRはN倍(+10logN dB)。
第1.4章雑音
通信の敵は雑音である。雑音を「温度」で測る理由、複数の機器がつながったときの雑音の合成則、 そしてシステム雑音温度 T_sys の中身を理解すれば、G/T という一つの数の意味が明確になる。
1.4.1 なぜ温度で測るのか
抵抗体は温度に比例した熱雑音 kT [W/Hz] を発生する(ナイキストの定理)。 そこで、増幅器などあらゆる雑音源を「同じ雑音を出す抵抗体の温度」に換算して統一的に扱う。 これが等価雑音温度 T_e である。雑音指数 F(290 Kを基準にした雑音の増加率)とは
で往復できる。深宇宙局の冷却低雑音増幅器(LNA)は T_e = 10〜20 K、 すなわち雑音指数0.2 dB前後という驚異的な低雑音を実現している。
1.4.2 縦続接続 — 初段がすべてを決める
利得 G_1, G_2, … 雑音温度 T_1, T_2, … の機器を数珠つなぎにしたとき、 入力に換算した全体の雑音温度は
となる(Friisの式)。2段目以降の雑音は前段の利得で割られるため、 初段のLNAの性能が受信系全体の性能をほぼ決める。逆に、LNAより前にある損失(ケーブル・給電系)は 信号を減衰させつつ自身の物理温度で雑音を加える、最も不利な位置の要素であるから、LNAはアンテナの直近に置く(図1.4-1)。
1.4.3 システム雑音温度の中身
アンテナ端で定義したシステム雑音温度は、およそ次の和である。
| 成分 | 正体 | 典型値(X帯・晴天・高仰角) |
|---|---|---|
| T_sky | 宇宙背景放射2.7 K+大気の放射(第1.5章)。降雨で激増する。 | 5〜10 K |
| T_ground | アンテナのサイドローブが約290 Kの地面を「見て」拾う分。低仰角で増える。 | 数K〜十数K |
| T_rx | LNA以降の受信機系(Friis合成値)。 | 10〜20 K |
合計20〜40 Kが深宇宙局の実力である。ちなみに市販衛星放送受信機の雑音温度は100 K前後であり、 深宇宙局はその数分の1の雑音で、桁違いに弱い信号を扱っている。
G_r = 68.0 dBi、T_sys = 33 K(10log₁₀33 = 15.2 dBK)なら G/T = 52.8 dB/K。 雨で T_sys が100 Kに上がると G/T = 48.0 dB/K。信号の減衰と別に、雑音上昇だけで4.8 dB損する。 この「二重の劣化」の仕組みは第1.5章で扱う。
1.4.4 基準面という落とし穴
T_sys・G/T・損失は「回路のどの点で定義したか」(基準面)で数値が変わる。 アンテナ開口基準か、LNA入力基準かで数dB違うことがある。 局の諸元を引用するときは基準面を必ず確認する——実務で最も多い初歩的ミスの一つである。
1.4.5 アンテナ温度の物理 — ビームは「見たものの温度」を拾う
アンテナ温度とは、アンテナのパターンが見込む各方向の輝度温度を、 パターンの感度で重み付き平均した量である。主ビームが晴天の空(数K)を向き、 サイドローブの数%が地面(290 K)を向いていれば、アンテナ温度は おおよそ 0.95×数K + 0.05×290 K ≈ 20 K弱、という計算になる。 「アンテナが向いている先の温度がそのまま雑音になる」——この描像を持つと、 仰角依存・降雨時・太陽近傍観測(太陽は数千〜数万Kの電波源)の T_sys変化がすべて統一的に理解できる。
1.4.6 雑音指数とdBの換算に慣れる
| 雑音指数 F | 等価温度 T_e | 該当する機器の例 |
|---|---|---|
| 0.1 dB | 7 K | 深宇宙局の冷却LNA(極限性能の領域) |
| 0.5 dB | 35 K | 高級な常温LNA |
| 1.0 dB | 75 K | 一般的な低雑音受信機フロントエンド |
| 3.0 dB | 290 K | ごく普通の受信機・ミキサ直結 |
| 10 dB | 2610 K | 探査機の受信機はこの領域もある(上りは電力で補う) |
「F[dB]が小さい領域では、0.1 dB ≈ 7 K」という感覚を持っておくと、 仕様書のdB表記と回線計算のK表記を行き来しやすい。
1.4.7 よくある疑問
Q. なぜ290 Kが基準なのか?
A. 室温(約17℃)の抵抗体を基準にした歴史的慣習である(IEEE定義)。 T_0 = 290 Kとすると kT_0 = 4.0×10⁻²¹ W/Hz = −204 dBW/Hz という切りの良い値になる。
Q. T_sysはどうやって測るのか?
A. 温度が既知の2つの源(高温源/低温源)を受信させ、出力電力比(Yファクタ)から 逆算する(第5.1章)。運用中は較正済み雑音ダイオードを注入して常時監視する。 天体電波源(フラックス既知)を使えばG/Tを直接測ることもできる。
Q. 雨のとき、T_skyの上昇はどこまで正確に見積もれるのか?
A. T_sky = T_m(1−1/L) の T_m(大気の実効温度)は250〜280 Kの幅を持ち、 降雨の鉛直分布にも依存するため、±10 K程度の不確かさは残る。 設計では保守側のT_mを使い、運用では放射計や受信機の実測T_sysで補正する。
- 雑音は温度に換算して扱う。T_e = T_0(F−1)。
- Friisの式により初段LNAが系全体を支配。損失はLNAの前に置かない。
- T_sys = 天空 + 地面 + 受信機 ≈ 20〜40 K(X帯深宇宙局)。
- G/T は利得と雑音の集約指標。雨はT_skyを介してG/Tを直接劣化させる。
- 数値には必ず基準面が付随する。混在させない。
第1.5章電波伝搬と大気
真空を抜けてきた電波の最後の関門が地球大気である。大気ガス・雨・大気の揺らぎ・電離したプラズマ—— それぞれの物理と、「年に何%までの悪条件に耐える設計にするか」という統計的設計思想を学ぶ。
1.5.1 大気ガスの吸収
水蒸気分子は22.235 GHz、酸素分子は60 GHz帯に共鳴周波数(分子の回転エネルギー準位差)を持ち、 その周波数付近の電波を吸収する。共鳴線の裾は広く、Ka帯(32 GHz)は水蒸気線の裾にかかるため 晴天でも天頂0.2〜0.3 dB、湿度に敏感である。X帯は0.05 dB程度でほぼ透明。 斜めに大気を通ると通過距離が伸びるので、減衰は概ね 1/sin(仰角) 倍になる。 計算手順はITU-R P.676に規定されている。
1.5.2 降雨減衰 — なぜKa帯は雨に弱いか
雨滴の直径は1〜5 mm。Ka帯の波長9.4 mmと同じスケールである。 波長と同程度の粒子は電波を強く散乱・吸収する(ミー散乱)ため、Ka帯は雨で大きく減衰する。 X帯(波長36 mm)では雨滴は波長よりずっと小さく、影響は一桁以上軽い。 1 kmあたりの減衰(比減衰)は降雨強度 R [mm/h] に対して
という冪乗則でよく表され、係数 k, α はITU-R P.838に周波数・偏波ごとに与えられている。 雨は空間的に一様でないため、実際のスラント経路の減衰への換算(実効経路長)はP.618の手順による。 目安として、中程度の雨(10 mm/h)でX帯は1 dB前後、Ka帯は10 dB超になりうる(図1.5-1)。
降雨統計と要求を結ぶ言葉が不稼働率(アウテージ率)である。 「年間p%の時間、減衰がA_p dBを超える」という超過確率の統計を、 「回線がp%の時間成立しない=不稼働率p%」という要求の言葉に読み替える。 時間感覚を持つために対応表を頭に入れておく。
| 超過確率(年間) | 時間換算 | 使いどころ |
|---|---|---|
| 1% | 約88時間/年 | ルーチンのデータ回収(再送で回復可能) |
| 0.1% | 約8.8時間/年 | 重要イベントの標準設計点 |
| 0.01% | 約53分/年 | クリティカル運用(軌道投入・EDL) |
任意のp%の減衰A_pは、基準のA_0.01からITU-R P.618のスケーリング式で換算する。 要求を厳しくするほど必要マージンは急増するので(Ka帯では0.1%→0.01%で数dB級)、 「全時間で成立」を求めるのではなく、不稼働率を要求として明示し、 悪天候時はレートを落とす・パスを振り替える運用と組にするのが現代の設計である (第5.4.4節・第6.2.10節)。クリティカルイベントだけは0.01%級で固く設計する—— 再送が効かない数分のために、年間53分側の統計で守る。
1.5.3 雨の二重の劣化 — 減衰と雑音
ここが本章の要点である。物理学のキルヒホッフの法則により、 電波を吸収する物体は、同じ効率で熱放射する。減衰率 1/L(真数)の大気は、 自身の物理温度 T_m(約275 K)を持つ熱放射体としてアンテナに見え、天空雑音温度は
となる(T_cosmic = 2.7 Kは宇宙背景放射)。つまり雨は ①信号を L 倍減衰させ、②T_sys を押し上げてG/Tを劣化させる、と二重に回線を劣化させる。
L = 3 dB(真数2)のとき T_sky = 275×(1−0.5) + 1.4 ≈ 139 K。 晴天 T_sys = 30 Kの局なら T_sys ≈ 166 Kとなり、雑音上昇だけで 10log(166/30) = 7.4 dBの劣化。 信号減衰3 dBと合わせて実効10.4 dBの損失である。「雨3 dB」を3 dBと思ってはいけない。
1.5.4 シンチレーションと統計設計
大気の屈折率の揺らぎは、秒スケールの振幅変動(シンチレーション)を生む。低仰角・高周波で大きい。 雨もシンチレーションも確率的な現象なので、伝搬項は「年間超過確率」で設計する。 たとえばR_0.01(年間0.01%=約53分だけ超える降雨強度)で設計すれば、稼働率99.99%の回線になる。 どこまで稀な悪天候に備えるかは、マージンのコストと運用回避(天候を見てKa帯→X帯に切り替える等)の コストの比較で決める。これが伝搬設計の本質である。
1.5.5 電離圏とプラズマ — f² で効く遅延
電離圏や惑星間空間の自由電子は、電波の伝搬をわずかに遅らせる。 経路上の電子の総数(全電子数TEC、単位TECU = 10¹⁶ el/m²)に比例し、周波数の2乗に反比例する。
S帯では数m〜数十mにもなる測距誤差が、X帯ではその1/13、Ka帯では1/190になる。 逆にこの周波数依存性を利用し、2周波で同時観測すれば電子による遅延を推定して除去できる (GPSの2周波補正と同じ原理)。精密測距・電波科学で重要になる(第3.1・3.2章)。
1.5.6 太陽合 — 太陽のそばを通る電波
探査機が太陽の向こう側に回る時期(太陽合)には、電波が太陽コロナのプラズマの中を通る。 コロナは密度が激しく揺らいでおり、位相の乱れ・スペクトルの拡がりを引き起こす。 影響は太陽–地球–探査機のなす角(SEP角)で整理され、X帯ではSEP角3°を切るとコマンドの信頼性が低下、 1°前後で通信断が目安である。Ka帯は f² 効果で耐性が約1桁高い。 ミッション計画では合の前後にクリティカルな運用を置かないのが鉄則である。
1.5.7 仰角と「空気の厚さ」
大気減衰・対流圏遅延・シンチレーションがいずれも低仰角で増えるのは、 電波が通過する大気の厚さ(エアマス)が 1/sin(仰角) で増えるからである。 仰角30°で2倍、10°で5.8倍、5°で11倍。低仰角パスは「悪い大気を長く通る」—— この1つの事実が、運用で仰角マスク(例: 10°以下は使わない)を設ける理由であり、 パス計画の基本制約になる(第5.1章)。
1.5.8 雲・霧・雪はどうか
雲・霧は微小な水滴(波長よりずっと小さい)なのでレイリー吸収域にあり、 Ka帯で最大数dB、X帯ではほぼ無視できる(ITU-R P.840)。 乾いた雪は影響が小さいが、湿った雪(みぞれ)は水膜を持つため雨に準じる。 またアンテナ鏡面・レドームへの着雪・着氷や水膜は伝搬とは別に利得低下を招くため、 寒冷地の局では設備側の対策(融雪・撥水)が実務課題になる。
1.5.9 サイトダイバーシティ
強い雨は空間的に局所的(雨域は数km〜数十km)である性質を利用し、 十分離れた2局で同時受信して良い方を採る手法をサイトダイバーシティと呼ぶ。 単独局で稼働率99.9%の回線が、相関の低い2局併用で99.99%以上に改善する。 Ka帯・光通信の地上系設計における基本戦略である。
1.5.10 電離圏シンチレーション
対流圏(中性大気)とは別に、電離圏のプラズマ密度の不規則構造も振幅・位相の 速い変動を起こす。磁気赤道帯の日没後と極域で強く、太陽活動度に依存する。 周波数依存はおよそ f^{−1.5}、S帯以下で顕著、X帯以上ではほぼ問題にならない。 「低い周波数ほど電離圏に、高い周波数ほど対流圏(雨)に苦しむ」と整理できる。
ここまでに登場した3種類のシンチレーションを一望しておく。名前は同じでも 原因・周波数依存・対策がまったく違う。
| 対流圏シンチレーション | 電離圏シンチレーション | 太陽コロナ(プラズマ) | |
|---|---|---|---|
| 原因 | 大気屈折率の乱流 | 電子密度の不規則構造 | 太陽風プラズマの乱流 |
| 周波数依存 | 弱い(高周波でやや増) | 強い(低周波ほど悪化、〜f⁻¹·⁵) | 強い(f⁻²系。低周波ほど悪化) |
| 効く条件 | 低仰角・高温多湿 | 低緯度の夜間・磁気嵐時 | SEP角が小さい(太陽合の前後) |
| 主な影響 | 振幅の速い変動 | 振幅・位相の変動 | 位相雑音・ドップラ雑音の増大 |
| 対策 | 仰角マスク・P.618統計で設計 | 高い周波数帯の使用 | SEP角閾値で運用計画(第1.5.6節) |
深宇宙のS/X/Ka帯では電離圏シンチレーションの影響は限定的だが、 太陽合前後のプラズマは搬送波追尾(ループ帯域の選び直し)とドップラ計測 (第3.2.8節のバジェット)に直接効く——「どのシンチレーションの話か」を 最初に確定させるのが議論の作法である。
1.5.11 なぜ2周波で電離圏遅延が消せるのか
プラズマの群遅延は Δρ = 40.3·TEC/f² と周波数の2乗に反比例する。 2つの周波数 f_1, f_2 で同じ距離を測ると、真の距離 ρ は共通、遅延だけが f² 則で異なるから、
と連立でAごと消去できる。未知数2つ(ρとTEC)を観測2つで解くだけの単純な代数である。 S/X同時ダウンリンクやGPSの2周波受信はこの原理の実装である。
▶ さらに深く: 伝搬計算の原典はITU-R P.676/P.838/P.618/P.531。DSN局での実務値はDSNハンドブック810-005モジュール105(無料)が定番(付録C)。
1.5.12 よくある疑問
Q. R_0.01のような統計値はどこから入手するのか?
A. ITU-R P.837が全球の降雨統計マップ(経緯度グリッド)を提供しており、 局の座標から読み取る。国内局なら気象庁の長期統計も併用する。 重要なのは「その数値は年間平均の統計であり、特定の日の保証ではない」こと。 稼働率設計と日々の運用判断(天気予報)は別の道具である。
Q. 太陽合の期間はどのくらい続くのか?
A. SEP角の変化率は探査機の軌道による。火星ミッションの場合、 SEP角3°以下の期間はおよそ2週間、1°以下は数日である。合は約26ヶ月ごと (会合周期)に必ず来るため、ミッション計画の初期から運用カレンダーに織り込む。
- ガス吸収は分子共鳴。Ka帯は水蒸気線の裾で湿度に敏感、X帯はほぼ透明。
- 雨は波長と雨滴径が近いKa帯で激しい(γ = kR^α)。
- 吸収体は放射する。雨は減衰+雑音上昇の二重の劣化(例1.5-1で実効10 dB超)。
- 伝搬は統計で設計する。R_0.01設計=稼働率99.99%。
- プラズマ遅延は40.3TEC/f²。2周波で除去可能。太陽合はSEP角で管理。
第2.1章変調
1本の電波に搬送波・データ・測距信号という3つの役割を同居させるのが深宇宙の変調である。 電力の配分がBessel関数で決まる理由を、三角関数の展開から導く。
2.1.1 位相変調と電力の配分
深宇宙の標準は搬送波の位相変調(PM)である。データ波形 m(t) = ±1 で位相を ±θ 振ると、送信信号は
となる。三角関数の加法定理 cos(A+B) = cosA·cosB − sinA·sinB で展開すると、m² = 1 に注意して
第1項はデータによらない純粋な搬送波(電力比 cos²θ)、第2項がデータを運ぶ側帯波(電力比 sin²θ)である。 つまり変調指数 θ は「搬送波とデータへの電力の配分比」を決めるパラメータにほかならない。 θ = 0 なら全部搬送波(データなし)、θ = π/2 なら全部データ(搬送波消失)。
2.1.2 正弦波副搬送波とBessel関数
データを一旦正弦波(副搬送波)に載せてから位相変調すると、位相項が θ·sin(ω_s t) という 時間の正弦関数になる。このときスペクトルは数学の恒等式(Jacobi–Anger展開)
で分解され、搬送波には J_0²(θ)、データ1次側帯波には 2J_1²(θ) の電力が配られる (J_n は第1種Bessel関数)。残りの高次項は復調に使えない変調損失である。 J_0(2.405) = 0 なので、θ = 2.405 radでは搬送波が消える。配分の全体像を図2.1-1に示す。
2.1.3 3チャネルの同時変調
テレメトリ(指数 θ_t)と測距信号(指数 θ_r)を同時に位相変調すると、 独立な変調どうしの性質から、各チャネルの電力比は因子の積になる。
θ_t = 1.2 rad(正弦波副搬送波)、θ_r = 0.5 radのとき: 搬送波 0.450×0.881 = 39.7%、データ 0.497×0.881 = 43.7%、測距 0.450×0.117 = 5.3%、 残り11.3%は高調波(損失)。データチャネルの変調損失は 10log₁₀0.437 = −3.6 dBとして回線計算に入る。 搬送波追尾(第2.3章)・データ・測距の3つの要求を同時に満たすθの組を探すのが変調設計である。
2.1.4 副搬送波は何のためにあるか
データレートが低いと、データのスペクトルは搬送波のすぐ隣に密集する。 搬送波を追いかけるPLL(帯域数十Hz。第2.3章)にとって、すぐ隣に広がるデータスペクトルは追尾を乱す妨害になる。 そこで副搬送波(データレートの4倍以上が目安)でデータを搬送波から引き離す。 レートが高くなればデータスペクトルは自然に広がって干渉しなくなるため、 副搬送波なしの直接変調(PCM/PM/NRZ)や、搬送波位置にスペクトルの谷を作るManchester符号 (PCM/PM/Bi-φ、ただし帯域2倍)に移行する。CCSDS 401がレート帯ごとの使い分けを規定している。
2.1.5 抑圧搬送波 — 高レートの選択
数百kbps以上では、搬送波に電力を割くより全部データに使う方が得になる。 これが抑圧搬送波方式(BPSK/QPSK/OQPSK/GMSK)である。QPSKは1シンボルで2ビット運ぶため 同じレートで帯域が半分になる。搬送波が無いので、受信側は信号を2乗するなどの非線形処理で 搬送波位相を再生する(Costasループ)。その代償である二乗損失は第2.3章で扱う。 帯域外への放射はSFCG勧告のスペクトルマスクに適合させる。
2.1.6 変調方式の名前の読み方 — PCM/PSK/PMとは何か
深宇宙の変調方式は「PCM/PSK/PM」のようにスラッシュ区切りの3段の名前で呼ばれる。 これは信号が加工される順序をそのまま並べた表記であり、右から読むと外側の変調になる。
すなわちPCM/PSK/PMは「ビット列→副搬送波PSK→搬送波PM」という3段構成の総称である。 副搬送波が正弦波か方形波かで電力配分の式が変わる(正弦波: J_0²/2J_1²、方形波: cos²/sin²。6.1〜2.1.2節)。 同様にPCM/PM/NRZは「ビット列(NRZ波形)で直接搬送波をPM」、 PCM/PM/Bi-φは「Bi-φ(Manchester)波形で直接PM」を意味する。
2.1.7 ラインコード — NRZとBi-φ
①のPCM波形(ラインコード)にも種類がある。 NRZ-Lはビット1を+1、ビット0を−1にする最も単純な波形で、帯域は最小だが、 同符号が続くと遷移がなくビット同期を失いやすく、スペクトルが直流(搬送波位置)に集中する。 Bi-φ-L(Manchester)は各ビットの中央に必ず遷移を入れる波形で、 同期が取りやすく搬送波位置にスペクトルの谷ができる代わりに、帯域が2倍になる。 低レートで搬送波との干渉を避けたいときはBi-φ、帯域が惜しい高レートではNRZ、という使い分けである。
2.1.8 方式ファミリの一覧と使い分け
| 方式 | 構成 | 搬送波 | 適するレート | 選定理由 |
|---|---|---|---|---|
| PCM/PSK/PM(正弦波SC) | 3段(副搬送波あり) | 残留 | 〜数十kbps | 低レートでPLLとデータを分離。測距同載可。 |
| PCM/PSK/PM(方形波SC) | 3段(副搬送波あり) | 残留 | 〜数十kbps | 同上。データ電力を多く取れる。 |
| PCM/PM/NRZ | 2段(直接変調) | 残留 | 数十k〜数Mbps | データ帯域が広がり副搬送波不要に。 |
| PCM/PM/Bi-φ | 2段(直接変調) | 残留 | 中レート | 搬送波位置にスペクトル零点。帯域2倍。 |
| BPSK/QPSK/OQPSK | 抑圧搬送波 | なし | 高レート | 全電力をデータへ。Costas追尾。 |
| GMSK | 連続位相 | なし | 高レート | 狭帯域・定包絡線。近年の高速TLM。 |
「どの方式を選ぶか」は結局、データレート・測距の要否・搬送波追尾の成立性・帯域制限の 4条件からほぼ機械的に決まる。計算コンソールの「変調・チャネル」でフォーマットを切り替えると、 この表の違いが電力配分と帯域の数値としてそのまま現れる。
2.1.9 なぜ振幅でなく位相を変調するのか
探査機の送信機は電力効率を最優先し、増幅器を飽和領域(非線形)で運転する。 振幅に情報を載せると非線形増幅で歪んで壊れるが、位相・周波数の情報は包絡線が一定 (定包絡線)なら飽和増幅を通っても保たれる。PM/PSK系が宇宙機の標準であるのはこのためである。 OQPSKやGMSKは、フィルタリング後も包絡線変動を小さく保つための改良である。
2.1.10 変調設計の実務 — 指数の決め方と実測
変調指数の設計は「残す搬送波」から逆算するのが定石である。手順は、 ①搬送波追尾に必要なループSNR(例: ρ≥13 dB、第2.3章)と回線のC/N₀から、 搬送波に最低限必要な電力比率を求める。②測距等の副チャネルに要求SNRぶんを配る。 ③残りをデータに割り当て、対応する変調指数を電力配分式(2.1.1〜2.1.3節)から逆に解く。 データ配分を欲張って搬送波を削りすぎると、回線が悪化した日に「データは十分だが 追尾が外れる」という壊れ方をする——回線の弱い日に最初に守るべきはループである。
例えば θ=1.2 rad(データ45.0%/搬送波31.5%)とθ=1.4 rad(データ55.4%/搬送波22.6%)の 差は、データ側で+0.9 dB、搬送波側で−1.4 dBに相当する。ノミナルではどちらも成立する場合、 最悪ケースの搬送波ループSNRで決める——これが3値計算書(第6.2.6節)と変調設計の接点である。
高レート化では帯域と増幅器の物理が方式を選ばせる。TWTAを飽和で使う深宇宙機では 振幅が一定(定包絡線)の方式が有利で、フィルタリングによる包絡線変動はAM/PM変換で 位相誤差に化ける。このためCCSDS 401.0-BはレートとバンドごとにGMSKやフィルタ付き OQPSK等を推奨し、スペクトルマスクとセットで規定している。方式選定とは 「情報理論の最適」ではなく増幅器・帯域・実装損失を含めた系の最適を選ぶ作業である。
設計した変調指数は実測で閉じる。残留搬送波方式ならスペクトラムアナライザの ライン電力比から(第5.4.1節)、より精密にはシグナルアナライザの位相復調で 直接ピーク位相偏移を読む。実測値と設計値の差は変調器の較正誤差そのものであり、 適合性試験(第5.4.3節)の必須項目になる。
2.1.11 回線は3本ある — チャネル別回線設計と変調損失
残留搬送波方式の回線計算書は、実は1本ではなく3本の回線を並行して判定している。 受信した全信号電力P_Tが、変調指数に応じて搬送波・データ・測距の各チャネルに分配され、 それぞれが自分の要求値と比較される。この配分比をdBで表したものが変調損失である ——「損失」と呼ぶが電力が消えたのではなく、他のチャネルに配られただけである (交差成分だけは真に失われる)。
図2.1-3に完全な数値例を示す。データθ_d = 1.2 rad(方形波副搬送波)、 測距θ_r = 0.3 rad(正弦波)のとき、積の法則(2.1.3節)から 搬送波比率 cos²θ_d·J₀²(θ_r) = 0.131×0.956 = 0.126(−9.0 dB)、 データ比率 sin²θ_d·J₀²(θ_r) = 0.869×0.956 = 0.830(−0.8 dB)、 測距比率 cos²θ_d·2J₁²(θ_r) = 0.131×0.044 = 0.0058(−22.4 dB)となる。
重要なのは各チャネルの要求値の物差しが全部違うことだ。搬送波はループSNR ρ(2B_Lで切る)、データはEb/N₀(レートで切る)、測距は積分時間で決まる所要P_r/N₀。 だから「回線が成立するか」は3本それぞれで判定し、最小のマージンが回線のマージンになる。 配分設計(第6.2.4節)とは、この3本のマージンを要求に応じて釣り合わせる作業に他ならない。 測距はわずか0.6%の電力(−22.4 dB)でも積分が効いて成立する——「弱くても粘れる」チャネルと 「瞬時に必要」なチャネルの性格の違いが、配分の自由度を生んでいる。
▶ さらに深く: 変調損失と電力配分の体系はYuen編『Deep Space Telecommunications Systems Engineering』(JPL 82-76、無料公開)第3章が原典級(付録C)。
2.1.12 ビットレートとシンボルレート
情報の速さ(ビットレートR_b)と電波上の変化の速さ(シンボルレートR_s)は 符号化と多値化で結ばれる: R_s = R_b ÷ (符号化率 r × log₂M)。 BPSK(M=2)に率1/2の符号を掛けると、10 kbpsの情報は20 kspsのシンボル流になる ——符号は冗長ビットを足すので、電波はデータの2倍の速さで動く。 占有帯域幅はR_s(にロールオフ係数を掛けたもの)で決まるため、 スペクトルと免許(第6.2.9項)を律するのはビットレートではなくシンボルレートである。
SNRの物差しも対応して変わる。Es/N₀ = Eb/N₀ + 10log(r·log₂M)なので、 BPSK・率1/2ではEs/N₀はEb/N₀より3 dB低い。地上局の受信テレメトリに出る 「シンボルSNR」はEs/N₀であり、符号の要求値(Eb/N₀)と比べるには この換算を挟む——監視画面の数字(第5.4.4節)を回線計算書と突き合わせるときの 最初の一歩である。なおリード・ソロモン符号の「シンボル」(8ビット塊、第2.2章)は 変調シンボルとは無関係の同名別概念なので注意。
2.1.13 よくある疑問
Q. 変調指数θは実際どうやって決めるのか?
A. 制約充足問題として決める。①搬送波チャネルがループSNR要求(第2.3章)を満たす、 ②データチャネルが要求E_b/N_0を満たす、③測距チャネルが要求P_r/N_0(第3.1章)を満たす—— の3条件を同時に満たすθの組を、回線の弱い側(通常は最遠距離・最悪天候)で探す。 余裕があればデータ側に寄せてレートを稼ぐ。コンソールのリンクバジェットタブでθを動かすと 3チャネルのマージンが連動して動くので、この探索を体感できる。
Q. 副搬送波の周波数は何で決めるのか?
A. 下限はデータスペクトルと搬送波の分離(データレートの4倍以上が目安)、 上限は占有帯域と機上実装(高いほど帯域を占有する)。CCSDS 401に推奨値の範囲がある。 測距トーンや他チャネルとの周波数干渉も避ける。
Q. QPSKはBPSKよりE_b/N_0が悪くなりそうだが?
A. ならない。QPSKは直交する2つのBPSKを重ねたものなので、 ビットあたりで見た所要E_b/N_0はBPSKと同一である。得るものは帯域半減、 代償は搬送波再生・タイミングがやや複雑になること。
- PMの電力配分は加法定理そのもの: 搬送波cos²θ、データsin²θ。
- 正弦波副搬送波ではJacobi–Anger展開によりJ_0²/2J_1²になる。
- 複数チャネル同時変調では電力比は因子の積。θの選定=電力配分設計。
- 副搬送波は低レートデータをPLLから引き離すための仕掛け。
- 高レートは抑圧搬送波(BPSK/QPSK)で全電力をデータへ。
第2.2章誤り訂正符号
同じ電力で10倍近く速く送れるようにするのが誤り訂正符号である。 「理論限界まであと何dBか」という視点で、深宇宙で使われる符号の系譜を整理する。
2.2.1 シャノン限界という物差し
情報理論によれば、雑音があっても誤りなく通信できる最小の E_b/N_0 が存在する。 帯域を無限に使ってよい極限で
である。一方、符号化なしのBPSKでビット誤り率10⁻⁶を得るには10.5 dBが要る。 この約12 dBの差が符号化によって回復できる領域であり、深宇宙通信の歴史はこの12 dBを段階的に埋めてきた歴史でもある。1 dBの改善は送信電力25%増と等価—— 探査機で電力を25%増やす困難を思えば、符号の価値が分かる。
2.2.2 仕組みの直観
k ビットの情報に検査ビットを足して n ビットで送る(符号化率 r = k/n)。 正しい符号語どうしは互いに大きく異なる(ハミング距離が大きい)よう設計されているため、 受信語に多少の誤りがあっても「最も近い符号語」に戻せる。 検査ビットの分だけ1ビットあたりのエネルギーは薄まる(E_s = r·E_b)が、 訂正能力の利得がそれを大きく上回る。
2.2.3 深宇宙符号の系譜
| 符号 | 符号化率 | 要求E_b/N_0(目安) | 備考 |
|---|---|---|---|
| 畳込み(7,1/2)+Viterbi | 1/2 | 約4.8 dB(BER 10⁻⁶) | 1970年代〜。逐次復号・低遅延。 |
| RS(255,223)+畳込み連接 | 0.44 | 約2.5 dB(FER 10⁻⁴) | Voyager以来の実績構成。 |
| Turbo(r = 1/2〜1/6) | 1/2〜1/6 | 約1.0〜0.1 dB(FER 10⁻⁴) | 反復復号。限界まで〜1 dB。 |
| LDPC AR4JA(r = 1/2〜4/5) | 1/2〜4/5 | 約1.0〜2.3 dB(FER 10⁻⁴) | 現行主流。高速実装向き。 |
TurboとLDPCはブロック全体を確率的に反復復号するため、性能はブロック単位の フレーム誤り率(FER)で語る。表の値は代表条件の目安であり、ブロック長・実装で変わる。 設計確定時は使用する復号器の実測カーブに拠ること。
例1.2-1の回線(E_b/N_0 = 11.9 dB @100 kbps)で、要求値が10.5 dB(無符号)から1.0 dB(Turbo)に 下がると、その差9.5 dBをレートに回せる。10^0.95 ≈ 8.9倍、つまり同じ電波で約90万bpsまで上げられる。 符号の改善は、送信電力を増やすことなく同じ効果を得る手段である。
2.2.4 フレーム構造と実効レート
データはCCSDSトランスファーフレーム(同期マーカ・ヘッダ・検査を含む)に載せて送る。 回線計算のレートがチャネルレートか情報レートかを常に意識し、実効スループットは
で数える。取得データ量は単純に レート×可視時間 であり(8時間・100 kbpsで360 MB)、 観測計画とパス計画の整合はこの掛け算で確認する。
2.2.5 BER曲線の読み方
符号性能は横軸E_b/N_0・縦軸BER(対数)の「ウォーターフォール曲線」で表す。 読み方の要点は2つ。①横方向の差が符号化利得(同じBERで必要なE_b/N_0の差)。 ②現代符号の曲線は閾値付近で崖のように落ちるため、 0.5 dBの回線変動が「ほぼ無誤り」と「全滅」を分ける。マージン管理が 昔の緩やかな曲線の時代よりシビアになっていることを意味する。 また低BER側で曲線が寝る「エラーフロア」の有無は符号実装の重要な検査項目である(図2.2-1)。
2.2.6 なぜ連接するのか — 誤りの「形」
畳込み符号のViterbi復号が失敗するとき、誤りは1ビットずつではなく 数十ビットの塊(バースト)で出る。ビット単位の訂正が得意な内符号と、 シンボル(バイト)単位の訂正が得意なRS外符号を重ねると、内符号が訂正しきれなかったバースト誤りを外符号が除去できる——これが連接符号の設計思想である。 同様に、バースト誤りを時間方向に分散させるインタリーブ(送信順の並べ替え)も、 誤りの形を符号の得意な形に変える技術である。
2.2.7 同期の喪失というもう一つの故障モード
復号器の前段には、フレーム先頭を見つける同期(ASM検出)、シンボル境界を合わせる シンボル同期がある。E_b/N_0が下がると、ビット誤りより先に同期が保てなくなって データが全損することがある。回線設計では、これら同期系が動作する下限も 要求値に含めて確認する。
2.2.8 符号選択の実務
要求E_b/N_0だけでなく、次の観点で選ぶ。 ①遅延: Turbo/LDPCはブロックが揃うまで復号できない(リアルタイム性とトレード)。 ②機上実装: 下りの符号化は軽いが、上り復号(第2.5章)は機上資源に制約される。 ③レート整合: 符号化後のシンボルレートが帯域・局設備の対応範囲に収まるか。 ④実績: 深宇宙は保守的な世界であり、飛行実績(heritage)が強く効く。
▶ さらに深く: 各符号の選定理由と性能根拠はCCSDS 130.1-G(Green Book、無料)が公式解説。理論はLin & Costello『Error Control Coding』(付録C)。
2.2.9 よくある疑問
Q. 符号化率1/6のTurboは帯域を6倍使う。もったいなくないのか?
A. 深宇宙は電力律速・帯域余裕なので、帯域を電力に換える取引は正しい(1.1.10節)。 ただしシンボルレートが上がると局設備の対応限界・スペクトルマスクに当たるため無制限ではない。 レートが高い下りでは1/2〜4/5のLDPCに寄せていく。
Q. FER 10⁻⁴という基準は緩くないか?
A. 再送が実質できない(往復が長い)深宇宙では、失われたフレームは観測データの欠測になる。 1万フレームに1枚の欠測は科学データとして通常許容範囲で、これより厳しくしても 回線コストに見合わない、という経験的なバランス点である。欠測が許されないデータには ファイル転送プロトコル(CFDP)の再送機能を上に重ねる。
- 物差しはシャノン限界(−1.59 dB)。無符号BPSKとの差12 dBが開拓の主対象。
- 冗長ビットで符号語間距離を買い、誤りを訂正する。
- 現行はTurbo/LDPCで限界まで1 dB前後。指標はFER。
- 符号の改善はそのままレート倍率になる(例2.2-1で約9倍)。
- 実効レートは符号化率×フレーム効率まで含めて数える。
第2.3章搬送波の捕捉と追尾
通信も計測も、まず搬送波に位相同期(ロック)できてこそ始まる。 PLLという追尾機構の性能がループSNRという1つの数で決まること、 そして「掃引で捕まえる」運用の理屈を学ぶ。
2.3.1 PLLは位相のサーボ
位相同期ループ(PLL)は、受信搬送波と内部発振器の位相差を検出し、 差がゼロになるよう発振器を制御し続ける負帰還制御系である。 機械のサーボと同型で、ばね定数にあたる自然角周波数 ω_n と減衰係数 ζ(通常0.707)を持つ。 このループが雑音を取り込む等価的な帯域幅(片側)が
である。B_L を狭くすれば雑音に強くなるが、動きへの追従は遅くなる——このトレードオフが本章のすべてを貫く。
2.3.2 ループSNRと位相ジッタ
帯域 B_L に入り込む雑音電力は N_0·B_L。これが搬送波電力 P_c に対して引き起こす位相の揺らぎは、 揺らぎが小さい範囲で
となる。ループSNR ρ という無次元数が追尾品質のすべてを決める。 ρ = 100(20 dB)でジッタ σ_φ = 0.1 rad = 5.7°である。 深宇宙機のB_Lが10〜50 Hzと極端に狭いのは、微弱な搬送波でρを稼ぐためである。
2.3.3 サイクルスリップ
PLLの位相誤差は2πごとに安定点を持つ周期ポテンシャルに従う。 まれに大きな雑音が重なると、隣の安定点まで一気に2π滑る——これがサイクルスリップで、 測距・ドップラ計測の連続性を破壊する。熱揺らぎによる障壁越え(Kramers型の過程)なので、 発生間隔はρに対して指数関数的に伸びる。1次ループの厳密解(Viterbi)を実用近似として
(I_0: 変形Bessel関数)。ρを3 dB上げるとスリップ間隔は数桁伸びる。 計測運用ではρ ≥ 13 dB程度を確保するのが目安である(図2.3-1)。
2.3.4 捕捉 — なぜ、どう掃引するか
交信開始時、探査機の受信周波数は発振器の個体差とドップラ予測誤差で数十〜数百kHzずれている。 PLLが自力で引き込める範囲はB_L程度(数十Hz)しかないため、 地上局が上り周波数をゆっくり変化(掃引)させ、探査機の受信帯域を「通過」する瞬間に引き込ませる。
掃引には速度上限がある。周波数を変えることはPLLに位相の加速度を与えることであり、 ループの復元力が対応できる加速度の上限が ω_n² だからである。無雑音での限界は
雑音があると復元力の余裕が削られ、実用上 (1 − √(2/ρ)) 倍に低減する(ρ ≤ 3 dBで捕捉不能)。 さらに安全係数0.5程度を掛けるのが運用の慣行である。
B_L = 20 Hz(ω_n = 37.7 rad/s)、ρ = 15 dBのとき: 無雑音限界226 Hz/s → 雑音低減169 Hz/s → 安全係数後85 Hz/s。 ±100 kHz(計200 kHz)の不確定を掃くのに約39分。往復光時間と合わせ、 パス冒頭の捕捉シーケンスに1時間を見込む——という運用タイムラインがここから出てくる。
掃引がなぜ必要かは、PLLの3つの周波数範囲を並べると明確になる(図2.3-4)。 ロックイン範囲(±2ζω_n程度、B_L=10 Hzなら±4 Hz級)は「通りかかれば即座に ロックする」幅。プルイン範囲はそれより広いが、引き込み時間が周波数差の 2乗に比例して伸びるため実用にならない。ホールド範囲は一度ロックした後に 追従し続けられる幅で、これは十分広い。つまり「入るのは狭く、保つのは広い」—— だから±100 kHz級の不確定(2.3.11節)を、狭いロックイン範囲を動かして走査する 掃引捕捉が唯一の現実解になる。
▶ さらに深く: PLLの捕捉・帯域・雑音の全理論はGardner『Phaselock Techniques』が定番。スリップ平均時間の式の原典はViterbi『Principles of Coherent Communication』(付録C)。
2.3.5 抑圧搬送波の追尾と二乗損失
BPSKには搬送波成分がないため、Costasループが信号を実質的に2乗して変調を消し、搬送波を再生する。 2乗の際に信号×雑音の項が混入し、実効ループSNRが
倍に低下する(二乗損失)。E_b/N_0が低いほど損失が大きいため、 低レート・低SNRの回線では残留搬送波方式が選ばれる。
2.3.6 コヒーレント・ターンアラウンド
トランスポンダは捕捉した上り位相を整数比(X帯: 880/749)で逓倍して下りを作る。 これにより下り搬送波の位相は上りと数学的に結ばれ、地上の水素メーザを基準とした 2-way計測が成立する(第3.2章)。上りが途切れると機上発振器基準の非コヒーレントモードに自動遷移する。
コヒーレントの価値は数字で見るとよく分かる。地上の水素メーザの安定度は σ_y〜10⁻¹⁵級、機上のUSOは良くて10⁻¹³級——2桁の差である。2-wayでは下り周波数の 「ものさし」が地上メーザになるため、速度計測精度がこの2桁ぶん改善する(第3.2.2節)。 また逓倍比880/749は位相もスケールするので、上りに乗った位相雑音はおよそ 20log(880/749) ≈ +1.4 dBされて下りに現れる——地上送信系の位相雑音仕様が 2-way計測の床を決める理由である。逆に1-wayを使いたい場面(電波掩蔽の科学観測、 上りが確保できない非常時)のために高安定USOを積むかどうかは、質量・電力・コストと 計測要求のトレードとしてミッション初期に決める設計判断になる。
2.3.7 ループ次数の意味 — 何を「追える」か
ループフィルタの次数は、定常誤差なしで追従できる入力の種類を決める。 1次ループは位相ステップまで、2次ループは周波数ステップ(一定のドップラオフセット)まで、 3次ループは周波数ランプ(ドップラレート)まで、定常誤差ゼロで追える。 深宇宙のドップラは大きなオフセット+緩やかなレートなので、2次ループ+ 予測値による事前補正(プログラム追尾)が標準構成である。 レート変化が大きい局面(スイングバイ等)では3次化や予測補正の強化で対応する。
2.3.8 ロック検出 — 「掴んだ」をどう知るか
同期の成否は、同相成分(I)と直交成分(Q)の電力比などから統計的に判定する (ロックディテクタ)。判定には誤警報と検出漏れが必ずあり、閾値と平均化時間で調整する。 探査機テレメトリの「受信機ロック状態」はこの判定器の出力であり、 往復光時間の遅れを伴って地上に届くことを運用手順に織り込む(第5.1章)。
2.3.9 掃引プロファイルの実務
実際の上り掃引は一方向でなく、予測受信周波数を中心に「上→下→中心」と 往復させて確実に横切らせる。受信機が最良ロック周波数(BLF)から 外れた点で静定すると追尾余裕が減るため、掃引の終端はBLF付近で止める。 掃引計画(範囲・速度・折返し)は予測精度・トランスポンダ特性・往復光時間から 毎パス計算される——本ツールの捕捉・追尾タブはその簡易版である。
2.3.10 二乗損失はどこから来るのか(導出スケッチ)
Costasループの位相誤差信号は I×Q に比例する。信号Sと雑音nに対し 積の展開に S·n(信号×雑音)と n²(雑音×雑音)の項が現れ、位相検出のノイズフロアを押し上げる。 SNRで整理すると実効ループSNRが S_L = 1/(1 + 1/(2E_b/N_0)) 倍になる。 「非線形処理は必ず雑音の対価を取る」という一般則の最も単純な例である。
2.3.11 捕捉運用の実際 — 予測・BLF・監視
掃引範囲は勘ではなく予算で決める(図2.3-3)。積み上げる項は、 ①BLF(ベストロック周波数)の不確かさ: 機上受信機の静止点は較正時から 経年・放射線でドリフトする。定期的なBLF測定(レスト周波数の実測)とトレンド管理が 掃引範囲を狭く保つ唯一の手段である。②温度変動: BLFは機上温度の関数であり、 直前のテレメトリ温度から補正するのが実務である(温度係数は熱真空試験の実測——第5.5.3節)。 ③ドップラ予測誤差: 軌道決定の鮮度で決まる。マヌーバ直後や長期間追跡が 空いた後は大きく取る。④これらに余裕を加えて掃引スパンとし、許容掃引速度 (2.3.4節・2.3.9節)で割って掃引時間を得る。
下り側(地上局の捕捉)は周波数予測ファイル(プレディクト)が主役である。 軌道決定解から局ごとの受信周波数の時系列を生成して配布し、受信機はこれを 中心にFFTで探索→周波数追尾→位相追尾(クローズドループ)へ段階的に引き込む。 1-way(機上発振器基準)は予測誤差が大きく、コヒーレント2-wayに移行した瞬間に 下り周波数が跳ぶ——この遷移過渡でロックを落とさない設定(ループ帯域の一時拡大等)も 局側の捕捉設計の一部である。
掃引中に運用者が見るテレメトリは決まっている。機上受信AGC(掃引が近づくと 立ち上がる)、静的位相誤差SPE(引き込みの瞬間に大きく振れて静定する)、 ロック状態フラグ、そしてコヒーレント遷移後の下り周波数の跳び。 予定時刻にAGCが立ち上がらなければ、掃引範囲を広げる・速度を落とす・ 1-wayで下りだけ確保して状況を見る、が定石の順である。 「捕捉できない」の大半は機体異常ではなく予測と実際の周波数のずれであり、 だからこそ予算の各項を個別に検証できる形で管理しておく。
2.3.12 ドップラー補償 — 周波数管理の全体像
探査機との相対速度は数十km/sに達し、X帯で±数百kHzのドップラを生む。 これを「どこで、誰が」吸収するかは3箇所に整理できる。
①上りの事前補償(ランピング)。地上局が送信周波数を時々刻々変化させ、 機体に届く時点で受信周波数がほぼ一定になるようにする。計算には片道光時間を 織り込む——「いま送った電波が届く時刻の機体速度」で補償する。これにより 機上受信機は狭いループ帯域のまま追従でき、掃引予算(2.3.11節)からドップラの 大半を除ける。送信周波数の履歴(ランプテーブル)は記録され、ドップラ観測量の 計算(第3.2章)で参照される。
②機上。トランスポンダのPLLが残りの変化率を追尾する。追尾レート限界 (Hz/s)は機器仕様であり、ランピングの品質がこの範囲に収まることを 軌道ごとに確認する。③下り。局はプレディクトに沿って受信周波数を プログラム追尾し、閉ループはその残差だけを追う。二段構えのおかげで、 受信ループ帯域は雑音最適の狭さを保てる。
まとめると、ドップラは「予測できる大部分」を開ループで消し、 「予測誤差の残り」だけを閉ループが追う。この分担の設計こそが周波数管理であり、 予測の質(軌道決定・第3.3章)が通信の成立性に直結する構造がここにもある。
2.3.13 よくある疑問
Q. B_Lはどうやって決めるのか?
A. 下限はドップラダイナミクス(追従すべき周波数変化)と発振器位相雑音、 上限は熱雑音(ρの確保)で決まり、両側から挟まれて定まる。深宇宙下りでは 「予測補正でダイナミクスを殺し、B_Lを限界まで狭めてρを稼ぐ」のが定石で、 その結果が10〜50 Hzという値である。
Q. 掃引せずに捕捉する方法はないのか?
A. ある。FFTで広帯域を一括探索し周波数を推定してからループを閉じる オープンループ捕捉は、ディジタル受信機で標準になりつつある。 ただし機上トランスポンダの多くは掃引捕捉を前提に設計されており、 地上局手順としての掃引は当面残る。両方を知っておく必要がある。
Q. ρが足りないとき、どんな症状が出るのか?
A. 段階的に壊れる。まず位相ジッタ増大による復調損失、 次にサイクルスリップ頻発(ドップラ・測距の不連続)、最後にロック外れ(回線断)。 「テレメトリは通るのに航法データが使い物にならない」中間状態が存在することが 実務上重要である。
- 追尾品質はループSNR ρ = P_c/(N_0·B_L) だけで決まる。ジッタは1/√ρ。
- スリップ間隔はe^{2ρ}で伸びる。計測はρ ≥ 13 dBが目安。
- 捕捉は掃引で行う。速度上限はω_n²/2π×雑音低減×安全係数。
- B_Lの狭さは雑音耐性と捕捉時間のトレードオフ。
- Costasループには二乗損失が付く。ターンアラウンド比が2-wayの根拠。
第2.4章受信信号処理 — 復調器の中で起きていること
搬送波同期(第2.3章)の先には、シンボルを取り出しフレームを見つけるもう一つの同期の連鎖がある。 整合フィルタ・パルス整形・シンボル同期・スクランブラ・フレーム同期という 復調チェーンを順に追い、「E_b/N_0どおりの性能が出る」ための条件を知る。
2.4.1 整合フィルタ — 理論性能を出すための必須条件
雑音中のパルスからシンボル判定のSNRを最大にする受信フィルタは、 送信パルス波形の時間反転(整合フィルタ)であることが証明できる。 第2.2章のBER理論値はすべて「整合フィルタ受信」を前提としており、 これを外れた分が実装損失(第5.1章)に計上される。
2.4.2 パルス整形とISI
矩形パルスのスペクトルは無限に裾を引くため、帯域制限すると波形が滲んで 隣のシンボルに重なる(符号間干渉、ISI)。そこでルートレイズドコサイン(RRC) フィルタを送受で半分ずつ持ち、合成でナイキスト条件(シンボル点でISIゼロ)を満たす のが標準設計である。ロールオフ率α(0.2〜0.5)が帯域と波形余裕のトレードを決め、 占有帯域 R_s(1+α) (第2.1章)のαはここから来ている。 受信信号を重ね書きしたアイパターンの「目の開き」がISIと雑音の実況であり、 試験現場で最初に見る画面である(図2.4-1)。
2.4.3 シンボル同期
シンボルの切れ目(最適サンプリング時刻)は信号自身から推定する。 遷移のタイミング誤差を検出してサンプリング位相を追い込むループ(タイミングループ)が 働いており、搬送波PLLと同様に帯域とSNRのトレードを持つ。 低SNRでは同期ジッタが実装損失として現れる。
2.4.4 スクランブラ — 遷移を絶やさない
データが0や1の長い連続になると、シンボル同期は遷移を見失い、 スペクトルは線状に偏る。そこで擬似乱数系列とXORして遷移密度を保証するのが スクランブラ(ランダマイザ)である。CCSDSで系列が標準化されており、 受信側は同じ系列で復元する。「符号化とは別に、同期のための撹拌がある」 と覚えておく。
2.4.5 フレーム同期 — ASMを探す
ビット列からフレーム先頭を見つけるため、フレームごとに既知の同期マーカ (ASM、例: 32ビットの1ACFFC1D)が挿入される。受信機は相関でASMを探索し、 「探索→確認→ロック」の状態機械で運用する。閾値を緩めれば見逃しは減るが 誤検出が増える——検出理論そのものであり、フレーム長・許容誤りビット数と 合わせて誤同期確率を設計する。同期が張り付いて初めて、復号器(第2.2章)に 正しい区切りでデータが流れ込む。
2.4.6 ディジタル受信機とオープンループ記録
現代の局の復調はソフトウェア無線(SDR)化しており、IF帯でサンプリングした 生データを記録できる。クリティカルイベント(第5.2章)では、リアルタイム復調と並行して 広帯域のオープンループ記録を残し、後から最適なパラメータで再処理する—— 「一発勝負を録画に変える」運用が標準になっている。
2.4.7 よくある疑問
Q. 実装損失1 dBの内訳は何か?
A. 典型的には、フィルタの不整合・シンボル同期ジッタ・搬送波位相ジッタ (第2.3章)・量子化・周波数誤差の残り、の積み上げである。BER実測(第5.1章)は この合計を1つの数字として測っている。
Q. 復調の各同期は、どの順に確立するのか?
A. 搬送波→(副搬送波)→シンボル→フレームの順である。 上流が確立しないと下流は動けないため、回線が弱ると壊れる順序はこの逆になる (フレームから落ちる)。第5.1章の切り分けはこの階段を上から下へ確かめる作業である。
- 理論BERは整合フィルタ前提。外れは実装損失として回線計算へ。
- RRC整形のロールオフαが帯域式 R_s(1+α) の正体。アイパターンが実況モニタ。
- スクランブラが遷移を保証し、ASM相関の状態機械がフレームを掴む。
- 同期の階段は 搬送波→シンボル→フレーム。壊れるのは逆順。
- クリティカル運用はオープンループ記録で「録画」する。
第2.5章コマンド回線
上り(コマンド)はテレメトリと設計思想が根本的に違う。「誤って受け取るくらいなら捨てる」。 この思想がBCH符号とCLTUという仕組みにどう具体化されているかを学ぶ。
2.5.1 誤受理だけは許されない
テレメトリのビット誤りはデータの傷で済むが、コマンドの誤受理 (雑音で化けたビット列を正規の指令として実行すること)は探査機の喪失につながりうる。 そこでコマンド回線は、誤受理確率を極小化し、疑わしい受信は棄却して再送に任せる方針で設計する。 評価指標はBERではなく、コマンド単位の受理確率・棄却確率・誤受理確率である。
2.5.2 BCH(63,56)とCLTU
コマンドデータは56ビットずつ、7ビットの検査を付けた63ビットのコードブロックに分割され、 開始系列+ブロック列+終端系列からなるCLTUとして送出される(CCSDS 231/232)。 受信側のBCH復号には2モードある。チャネルのビット誤り率を p として、1ブロックの受理確率は
N ブロックのCLTUが丸ごと受理される確率は P_blk^N。 SECは受理率が上がる代わりに誤訂正(=誤受理)のリスクを僅かに持つため、 どちらを使うかは運用方針で決める。
E_b/N_0 = 9.6 dB(無符号PSKのBER ≈ 10⁻⁵)で10ブロックのCLTUをTED受信すると、 P_blk = 0.99937、棄却確率は約6×10⁻³——1000回に6回はコマンドが「届かない」。 棄却確率10⁻⁶を求めるならE_b/N_0 ≈ 12.4 dBが必要で、上り回線はこの値+マージンで設計する。 テレメトリ(Turboで1 dB)よりずっと高い要求値になるのは、符号が軽い代わりに確実性を要求するからである。
2.5.3 プロトコルとの分担
棄却されたコマンドは、データリンク層のCOP-1プロトコル(送達確認と自動再送)が回復する。 物理層は「誤受理の排除」に徹し、到達の保証は上位層と分担する——階層設計の好例である。 また、姿勢喪失時にも受かる広ビームLGA+極低レート(数〜数十bps)の非常コマンド系を必ず持ち、 最悪姿勢でもこの回線が成立することを平時の回線計算で確認しておく。
2.5.4 誤受理確率 — もう一つの確率
棄却確率とは別に、誤りが検査をすり抜けて受理される確率(誤受理)がある。 BCH(63,56)の検査ビットは7ビットで、ランダム誤りが偶然検査を通る確率は おおよそ 2⁻⁷ に「ブロックが誤る確率」を乗じた程度に抑えられる。 さらに上位のフレーム検査(CRC)が重なるため、コマンド全体の誤受理は 実用上無視できる水準まで落とされる。「棄却は許すが誤受理は許さない」という 非対称な目標が、この多段検査の構造に現れている。
2.5.5 CLTUの構造 — 開始と終端
受信機はビット列から開始系列を検出してCLTUの先頭を知り、 以降を63ビットずつ復号する。誤り検出で棄却するか、終端系列 (意図的に復号不能なパターン)で受理を終える。「どこからがコマンドか」という 同期自体に誤り耐性を持たせた構造である。ビット同期獲得までの物理層手順は PLOP(Physical Layer Operations Procedure)として規定されている(図2.5-1)。
2.5.6 COP-1の動き — 順序保証の仕組み
順序が入れ替わると危険なコマンド列(アーム→ファイア等)のため、 COP-1は地上(FOP)と機上(FARM)がフレーム番号を照合し、 抜けを検出したら以降を受理せず地上が再送する滑り窓プロトコルである。 往復光時間が長いと確認待ちで能率が落ちるため、 通常コマンドは確認なし(BDモード)、クリティカルな系列は順序保証つき(ADモード)と 使い分ける。
2.5.7 よくある疑問
Q. なぜ上りは今でもBCHのような軽い符号なのか?
A. 復号器が機上にあるからである。下りの強力符号は地上の計算機が復号するが、 上り符号は探査機の限られた検証済みハードで復号せねばならず、 単純さと実績が重視されてきた。近年のCCSDS 231は上り用短LDPCも規定しており、 新しい機体では採用が進む(要求E_b/N_0が数dB下がる)。
Q. 「届いたのに実行されない」ことはあるのか?
A. ある。物理層で受理されても、フレーム検査・COP-1順序・コマンド妥当性検査の どこかで弾かれうる。機上の受理/棄却カウンタのテレメトリで切り分ける。 「物理層のマージン不足か、プロトコル設定か」を分離できることが運用者の腕である。
- コマンドは誤受理の排除が最優先。疑わしきは棄却。
- BCH(63,56)のブロック受理確率は厳密な二項計算で出せる。
- CLTU棄却確率10⁻⁶ ⇒ 無符号相当でE_b/N_0 ≈ 12.4 dBが設計点。
- 再送はCOP-1が担う。非常系はLGA+極低レートで最悪姿勢でも成立させる。
第3.1章測距
「電波の往復時間×光速÷2」——原理は一行だが、精密さ(cm級の位相測定)と 一意性(どのサイクルかの特定)の両立に工夫がある。現行標準のPN測距(PNレンジング、CCSDS 414.1-B)までを導く。
3.1.1 原理と精度の限界
周波数 f_RC の測距信号(レンジングクロック)を探査機で折り返し、送受の位相差 φ から距離を得る(図3.1-1)。
(RTLT: 往復光時間、τ_tr: 機上の折返し遅延)。位相測定の精度は、推定理論の下限として
(P_r/N_0: 測距チャネルの電力対雑音密度比、T: 積分時間)。 クロックが高いほど・信号が強いほど・長く積分するほど精密になる。
3.1.2 あいまいさという問題
位相は2πで一回りするため、クロックだけでは距離が c/(2f_RC) ごとに区別できない (1 MHzなら150 mごとに同じ位相になる)。この「整数サイクルの不定性」をあいまいさと呼ぶ。 低い周波数成分ほど広い範囲を一意に張れるので、高いクロックで精度を、低い成分であいまい解決を 分担させるのが測距信号設計の定石である。
3.1.3 PN測距 — 中国剰余定理を電波で使う
現行標準(CCSDS 414)は擬似雑音(PN)符号測距である。 周期 2, 7, 11, 15, 19, 23 チップの6本の短い符号を重み付き多数決で1本に合成する。 周期が互いに素なので、合成符号の周期は中国剰余定理によりその積
になる。チップレート約2 Mcpsで一意範囲約73,000 km。 受信機は各成分符号との相関で成分ごとの位相を推定し(相関のSNRは各成分の電力配分 ξ_n² に比例)、 全成分の位相が揃うと距離が一意に決まる。クロック役のC1成分が精度を、C2〜C6があいまい解決を受け持つ。
標準符号は2種類ある。T4Bはクロックに電力の88%を集中し高精度(捕捉は遅い)、 T2Bは39%に抑えて成分符号に配り高速捕捉(精度は約1.5倍粗い)。 弱いリンクの巡航ではT4B、素早い捕捉が要る場面ではT2Bを選ぶ。
3.1.4 再生測距と透過測距
従来のトランスポンダは受信した測距信号を雑音ごと折り返していた(透過測距)。 上りで混入した雑音が下り電力を浪費するため、弱い上りでは大きく損をする。 現行の再生測距は機上でPN符号を復調・再生成してから折り返すため、上り雑音が下りに乗らず、 同条件で実効数十dBの改善になる。CCSDS 414はこの再生方式の標準である。
3.1.5 実際の精度は較正で決まる
熱雑音は積分すれば下がる。実際の測距確度を決めるのは較正しきれない系統誤差である。
| 誤差源 | 典型量 | 対策 |
|---|---|---|
| 局装置の遅延 | 〜数百ns | 既知経路のループバック測定(レンジ較正)で差し引く。 |
| 機上トランスポンダ群遅延 | ±数ns(温度依存) | 地上試験で温度特性を取得し、軌道上温度で補正。 |
| 対流圏遅延 | 天頂2.4 m、低仰角で10 m超 | 気象データによるモデル補正。残差cm〜dm級。 |
| 電離圏・プラズマ | f²則(第1.5章) | 2周波観測またはモデルで除去。 |
これらをRSS合成した総合確度は、現代の深宇宙測距で1 m級である。
3.1.6 トーン測距 — PN以前の標準
PN測距の前身は逐次トーン測距である。高い周波数のメジャートーン(〜1 MHz)で 精密に測り、より低いトーンを順に切り替えて送って粗い位相からあいまいさを解いていく。 原理はPNと同じ「高精度+段階的あいまい解決」だが、トーンを順番に送るため捕捉が直列で遅く、 途中でロックが切れるとやり直しになる。PN測距は全成分を同時に送って これを並列化したものと理解すると系譜がつながる。
| トーン測距 | PN測距(CCSDS 414) | |
|---|---|---|
| あいまい解決 | 低周波トーンを順に切替(直列) | 全成分を同時送信(並列) |
| 捕捉時間 | トーン数×各積分時間。長い | 1回の相関積分。短い |
| 途中でロック断 | 最初からやり直し | 積分の再開で済む |
| 再生測距対応 | 不可(機上で符号再生できない) | 可(機上DLLで再生・第3.1.4節) |
| テレメトリとの共存 | トーンとスペクトルが干渉しやすい | チップレート選択で分離しやすい |
| 現在の位置づけ | 実績豊富。対応局が広い従来標準 | 新規ミッションの標準 |
実務では「使う局がどちらに対応しているか」が選定のスタート地点になる。 複数機関の局を渡り歩くミッションでは、両対応のトランスポンダを積む判断もある—— 方式の優劣だけでなく、地上インフラとの適合(第5.4.3節)まで含めて決める。
3.1.7 測距とテレメトリの共存
測距信号はテレメトリと同じ搬送波に同時に載る(第2.1章の電力配分)。 運用では「測距オン時はレートをやや下げる」「高レートパスでは測距オフ」といった 配分の切替が日常的に行われる。また機上を通る測距信号の遅延は温度で揺れるため、 機上遅延較正(3.1.5節)は温度テレメトリとセットで管理される。
3.1.8 再生測距の仕組みをもう一歩
再生トランスポンダは、上りPN符号にDLL(遅延ロックループ)で同期し、 機上で雑音のない符号を再生成して下りに載せる。 透過方式の下り測距SNRが「上りSNRと下りSNRの直列」で決まるのに対し、 再生方式では上りは「機上DLLが同期できるか」にだけ効き、下り測距SNRは下りだけで決まる。 弱い上りの深宇宙でこの差は数十dBに達し、測距可能距離を桁で伸ばした。 機上に符号同期という知能を持たせて回線を救った好例である。
透過測距は非再生測距(ベントパイプ)とも呼ぶ。定量的には、透過方式の実効SNRは 上りと下りの直列合成で決まり、弱い側が支配する——上りの測距チャネルSNRが下り以下なら、 下りをいくら強くしても実効SNRは上りで頭打ちになる。再生方式はこの上り項を 「機上DLLが同期できるか」という閾値条件に置き換えるため、閾値さえ超えれば 下りだけの回線設計になる。図2.1-3の例で言えば、測距チャネルP_r/N₀の行が 上下それぞれに1本ずつあったものが、再生では下りの1本に統合される—— 回線計算書の構造自体が変わるのである。なお機上再生器の処理遅延は群遅延較正 (第3.2.8節・第5.4.3節)に含めて実測する。
▶ さらに深く: PN測距の符号設計と捕捉確率の根拠はCCSDS 414.0-G(Green Book、無料)に全導出がある(付録C)。
3.1.9 よくある疑問
Q. あいまい範囲73,000 kmより遠い探査機の距離はどう決めるのか?
A. 軌道予測が既に73,000 kmよりはるかに良い精度を持つため、 「予測に最も近い候補」を選べば一意に決まる。あいまい範囲は 「予測の不確かさより広ければ十分」であり、無限に広い必要はない。
Q. 熱雑音10 cmに対して総合1 mというのは、何が食っているのか?
A. 較正残差である。特に機上群遅延は±数ns(1 ns=片道15 cm)の不確かさを持ち、 温度補正後も数十cmが残る。熱雑音(積分で減る)と較正(減らない)の性格の違いが そのまま数字に出ている。
Q. GPSのように探査機側で自分の位置を出せないのか?
A. 深宇宙ではGPSが使えず、地上局からの測距・ドップラ・ΔDORが基本である。 パルサーX線航法や機上光学航法などの自律航法が研究されているが、 精度・成熟度で地上局測位が当面の主力である。
- 距離=往復位相。熱雑音精度はσ_ρ = (c/4πf_RC)/√(2ρT)でcm級に達する。
- 位相の縮退(あいまいさ)は低周波成分で解く。
- PN測距は互いに素な6成分の合成。一意範囲73,000 km。T4B=精度型/T2B=捕捉型。
- 再生測距は上り雑音を折り返さないことで数十dB得する。
- 最終確度は較正(局遅延・機上遅延・大気)が決める。総合1 m級。
第3.2章ドップラ計測とΔDOR
速度をµm/sで測る2-wayドップラの仕組みと、その精度を本当に決めているもの(熱雑音ではない)を理解する。 さらに、天球上の位置を直接測るΔDORまで、軌道決定を支える3つの観測量が揃う。
3.2.1 2-wayドップラ観測量
視線方向速度 v の探査機からの下り搬送波は、2-wayでは往復ぶんのドップラ偏移を受ける。
受信搬送波の位相を計数時間 T_c のあいだ積算し、位相の変化率から平均周波数——すなわち速度——を得る。 熱雑音による速度誤差は
と計数時間の3/2乗で急減し、標準条件(X帯、ρ_c = 30 dBHz、T_c = 60 s)で0.1 µm/s台に達する。
3.2.2 本当の限界は「ものさし」
では実際の精度も0.1 µm/sかというと、そうではない。周波数を測るとは基準発振器と比べることであり、 基準自身の揺らぎがそのまま見かけの速度になる。発振器の安定度(Allan偏差 σ_y)に対して
水素メーザ(σ_y = 10⁻¹⁵)で0.3 µm/s、機上USO(10⁻¹³、1-way時)で30 µm/s。 これに対流圏・プラズマの伝搬揺らぎが加わり、X帯2-wayの実力は0.03〜0.1 mm/s(60 s計数)となる。 2-wayが必須なのは、探査機に水素メーザを積めない以上、地上の「ものさし」を往復で使うしかないからである。
誤差予算の作法はここでも同じである: 積分で減る統計誤差(熱雑音)と、減らない系統誤差 (周波数標準・媒質・較正)を分けて列挙し、独立項をRSSで合成する。
3.2.3 3つの観測量と軌道決定
ドップラは視線方向の速度を強く拘束するが、視線に直交する方向の情報は 地球自転がつくる幾何変化を通じて間接的にしか得られない。 測距は視線距離を与える。そして残る「天球上の位置」を直接測るのがΔDORである。 3者は相補的で、組み合わせて軌道が決まる(図3.2-2)。
3.2.4 ΔDOR — クェーサを基準にした三角測量
2つの地上局(基線数千〜1万km)で探査機の電波の到達時刻差(群遅延)を測ると、 到来方向が分かる。ただし局の時計・大気・機器遅延の誤差がそのまま乗る。 そこですぐ近くに見えるクェーサ(位置がnrad級で既知の天体電波源)を数分おきに交互観測し、 差分を取って共通誤差を相殺する。これがΔDOR(相対VLBI。英語文献ではdelta-DOR、DDORとも表記される)である。遅延測定の精度は
(B_span: 観測トーンの張り出し帯域幅)。角度精度は σ_θ = c·σ_τ/B_baseline となる。
3.2.5 ドップラだけで軌道が決まる理由 — 地球自転の署名
視線速度1成分だけでは3次元軌道は決まらないように見える。鍵は地球自転である。 地上局自身が自転で動いているため、観測ドップラには1日周期の正弦波 (振幅が探査機の赤緯に、位相が赤経に依存)が重畳する。 この「自転の署名」を1パス追うだけで天球上の位置情報が得られる。 ΔDORはこれをより直接・高精度に測る手段であり、両者は相互チェックの関係にある(図3.2-1)。
3.2.6 3-way運用と局間バイアス
送信局と受信局が異なる3-wayでは、2局の周波数標準・機器遅延の差が 観測量にバイアスとして乗る。局間は共通時刻系で同期されるが、残差バイアスは 軌道決定フィルタの推定パラメータとして扱う。 「測れないバイアスは推定パラメータに昇格させる」——軌道決定の常套手段である。
3.2.7 相対論はどこまで効くのか
2-wayドップラの観測モデルには特殊相対論(速度2次項)と一般相対論 (太陽重力による時間遅れ・シャピロ遅延)が標準で入っている。 火星距離のシャピロ遅延は往復数十µsに達し、補正なしでは軌道決定が成立しない。 「相対論は深宇宙航法の日常業務」であり、逆にこの精密さを使って 探査機電波による一般相対論検証も行われてきた。
3.2.8 RARR誤差バジェットを組む — 実務テンプレート
RARRの精度議論は、誤差バジェットの表を1枚組めるようになって初めて仕事になる。 X帯・2-way・良条件での代表的な構成を示す(値は目安。各ミッションで実測・較正値に置き換える)。
| 誤差源 | 測距(1σ) | ドップラ/速度(1σ, 60 s) | 性質・圧縮手段 |
|---|---|---|---|
| 熱雑音 | 0.3–1 m | 0.03–0.1 mm/s | 統計。C/N₀と積分時間で改善 |
| 機上トランスポンダ群遅延 | 1–2 m(較正後) | — | 系統。適合性試験・熱真空で較正、温度依存を管理 |
| 局遅延 | 0.3–1 m | — | 系統。パス前後の局内ループバック較正 |
| 対流圏 | 0.1–1 m | 0.03–0.3 mm/s(揺らぎ) | 天頂遅延×マッピング関数。GNSSデータで較正 |
| 電離圏・太陽プラズマ | 0.1–数 m | SEP角依存 | f⁻²。2周波または合の回避で対処 |
| 周波数基準(水素メーザ) | — | <0.01 mm/s | アラン分散の床。局の資産 |
| タイムタグ・局位置 | 0.1 m級 | 微小 | 系統。VLBI/GNSSによる局座標維持 |
組み方の規律は回線計算と同じである: 統計項(積分で減る)と系統項(減らない)を 分けて列挙し、独立な項だけをRSSで合成する。系統項の代表がトランスポンダ群遅延で、 適合性試験(第5.4.3節)で較正値を取り、熱真空試験(第5.5.3節)で温度依存を取得し、 軌道上は機上温度テレメトリで補正する——試験と較正の連鎖が最終精度を決める。
観測量の形成にも約束事がある。ドップラは瞬時値ではなくカウント積分 (区間の位相サイクル数)として作られ、積分時間(例: 1〜60 s)は熱雑音と ダイナミクス追従のトレードで選ぶ。3-way(送信局と受信局が異なる)では 局間の周波数基準差がバイアスとして乗るため、2-wayとの併用や局間比較で推定する (第3.2.6節)。観測量はTDM(第3.3.2節)で軌道決定側へ渡り、残差解析で バジェットの各項が実際に検証される——予算表は作って終わりではなく、 残差と照らして更新し続ける生きた文書である。
▶ さらに深く: RARR・ΔDORの理論と誤差解析の決定版はThornton & Border『Radiometric Tracking Techniques for Deep-Space Navigation』(DESCANSO、無料PDF)。ΔDORの技術解説はCCSDS 500.1-G(付録C)。
3.2.9 よくある疑問
Q. ドップラで探査機の微小な力(推力・太陽輻射圧)も見えるのか?
A. 見える。µm/s級の分解能は10⁻⁹ m/s²級の加速度を数時間で検出できる。 スラスタ較正、太陽輻射圧モデル推定、フライバイ時の天体質量推定まで、 ドップラは「力学の精密センサ」として使われる。
Q. ΔDORのクェーサはどう選ぶのか?
A. 国際天文基準座標系(ICRF)の電波源カタログから、探査機の視方向に近く (10°以内が望ましい)十分明るいものを選ぶ。近いほど大気・機器の共通誤差が良く相殺する。 観測は探査機とクェーサを数分周期で交互に見る。
Q. 1-wayでUSOを使う場面はあるのか?
A. ある。電波掩蔽観測(惑星大気で電波を屈折させ大気構造を測る)では 上りが遮られるため1-way送信が必須で、USOの安定度が科学成果を直接決める。 非常時のビーコン運用も1-wayである。
- 2-wayドップラの熱雑音はT_c^{−3/2}で減り0.1 µm/s台まで到達。
- 実力は周波数標準(c·σ_y)と伝搬揺らぎが決める: 0.03〜0.1 mm/s。
- 誤差予算は統計項と系統項を分けてRSS。
- 測距=視線距離、ドップラ=視線速度、ΔDOR=天球位置。3点で軌道が決まる。
- ΔDORはクェーサ差分で共通誤差を消す。nrad=AU先のkm級。
第3.3章時刻・軌道決定・予測の循環
「観測(第3.1・3.2章)→軌道決定→予測→次のパスの追尾設定」という 深宇宙運用の中心的なループを一周する。機上時刻の管理と時刻相関、 追跡データの流れ、フィルタの考え方、予測の配布までを繋げる。
3.3.1 機上時刻 SCLK と時刻相関
機上のイベントは搭載クロック(SCLK)で打刻されるが、水晶発振器は 温度・経年でドリフトする。そこで下りフレームの送出時刻を局の原子時計で 受信打刻し、光路遅延を差し引いてSCLK↔地上時刻の対応表(時刻相関)を 維持し続ける。観測データの科学的価値は時刻の質に直結するため、 時刻相関は運用の地味だが決定的な定常業務である。 時刻の表現形式はCCSDS時刻コード(301.0-B)で標準化されている。よく使うのは2つで、 CUCはエポックからの経過秒を粗フィールド(例: 4バイト)+細フィールド (1バイトなら1/256秒刻み)のバイナリで表す形式、CDSは日数+日内ミリ秒で表す形式である。 先頭のPフィールドが形式自身を記述するため、受け取った側はデータだけで解釈できる。 機上のSCLKをCUCで下ろし、地上でUTCへ変換するのが典型構成である。
3.3.2 追跡データの流れ
局が生成したドップラ・レンジ観測(第4.2章)は、観測条件(局ID・周波数・ 計数時間)つきのTDMとして軌道決定チームへ配送される。ΔDOR(第3.2章)は 相関処理センターを経て遅延観測として合流する。 観測ファイルの中身を読めることは、通信系エンジニアが航法チームと 会話するための共通語である。
機関間・システム間で追跡データを受け渡す書式もCCSDSで標準化されている。 観測量(レンジ・ドップラ等)はTDM(503.0-B)、決定した軌道はODM (502.0-B。OEM/OPM等)、ΔDORの生データ交換は506.1-Bによる。書式が共通であることが、 クロスサポート(第6.1章)で他機関の局の観測量をそのまま自分の軌道決定に使える理由である。
3.3.3 軌道決定フィルタの考え方
軌道決定は「力学モデルで伝播した予測観測と、実観測の残差を最小にするよう 初期状態(位置・速度)と補助パラメータを推定する」統計推定である。 一括最小二乗(バッチ)と逐次(カルマン)filterが使われ、 solve-forパラメータには軌道だけでなく、太陽輻射圧係数・スラスタ誤差・ 局バイアス(第3.2章6節)・測距バイアスまで含められる。 観測残差のパターンを見る目——残差が白色なら健全、系統的なうねりは モデル不足かバイアス——は、通信側の異常(位相飛び等)の検出にも役立つ。
3.3.4 予測の配布 — ループを閉じる
決定された軌道からエフェメリスが生成され、各局へ指向予測・周波数予測 として配布される。この予測が次のパスの掃引範囲(第2.3章)・追尾成立性を決めるので、 「軌道決定の質→捕捉の容易さ」という形でループが閉じる。 軌道操作(マヌーバ)直後は予測が粗くなるため、掃引範囲を広げる・ 捕捉を保守的にする、といった運用調整が通信側に要求される(図3.3-1)。
3.3.5 よくある疑問
Q. 機上時計はどのくらい正確であればよいのか?
A. 用途による。テレメトリ打刻はms級で足りることが多いが、 観測装置の同期や自律運用はµs級を要求しうる。通信系としては 「時刻相関の測定精度」と「相関間のドリフト予測誤差」に分けて予算化する。 USO搭載機(第6.1章あかつき)は桁違いに良い時刻基準を持つことになる。
Q. 軌道決定は通信系エンジニアの仕事なのか?
A. 決定自体は航法チームの仕事だが、観測量の生成(測距較正・ 位相連続性・時刻)は通信系の責任範囲である。「観測の品質は通信系が作り、 解釈は航法が行う」という分担を理解しておくと、異常時の協働が速い。
- 時刻相関が機上時刻と地上時刻を結び、データの科学価値を支える。
- 観測→TDM→フィルタ→エフェメリス→局予測→次パスの捕捉、でループが閉じる。
- 残差を見る目は通信異常の検出にも効く。
- マヌーバ後は予測が粗い——掃引・捕捉を保守側に振るのが通信側の作法。
第4.1章機上RF系統の中身 — 部品から配線図へ
トランスポンダの内部、増幅器の選び方、送受を1本のアンテナに同居させるダイプレクサ、 そして「修理できない機械」のための冗長設計。個々の部品の理屈と、 それらを結ぶRF系統図(配線図)の読み方を身につける。
4.1.1 トランスポンダの内部構成
トランスポンダの心臓部は受信PLL(第2.3章)と周波数シンセサイザである。 受信PLLが上り搬送波に位相同期すると、その再生位相を逓倍・分周チェーンで 整数比 N_2/N_1 に変換し、下り搬送波として送信する(図4.1-1)。これがコヒーレント・ ターンアラウンドの実装であり、比が「880/749」のような互いに素な整数比で 厳密に規定されているのは、共通の基準周波数に対する整数逓倍・分周が ディジタル回路で最も正確に作れるからである。この比はCCSDS 401で国際標準化 されており、だからこそ他機関の局でも同じ探査機を追跡できる(クロスサポート)。
上りが検出できないときは、トランスポンダは内蔵の補助発振器(またはUSO)基準の 非コヒーレントモードに自動遷移して下りを維持する。運用者は下り周波数が 「予測どおりのターンアラウンド値か、機上発振器の値か」を見るだけで、 機上が上りにロックしているかを地上から判別できる——第5.1章の捕捉確認は この仕組みを使っている。
装置の視点で見ると、トランスポンダは地上局で言うモデム+アップコンバータ+ ダウンコンバータを1つの箱に統合した装置である(地上側の分業は第4.2.6節)。 またトランスポンダは通信系の端であって始まりではない——テレメトリフレームの生成と コマンドの解読はデータ処理系(衛星管理装置。ミッションによりSMU・DHU等と呼ぶ)の 仕事であり、通信系との境界は「フレームのビット列とCLCW(第4.3.3節)の受け渡し」という 明確なインタフェースになっている。機上受信機のAGC(自動利得制御。受信電力に応じて 利得を自動調整する仕組み)の制御値はテレメトリとして下ろされ、上り回線計算との 突き合わせ(第5.4.4節)や掃引捕捉の監視(第2.3.11節)に使われる—— AGCは「機上に置かれた上り電力計」だと理解しておく。
4.1.2 電力増幅器 — TWTAとSSPA
| TWTA(進行波管) | SSPA(固体) | |
|---|---|---|
| 原理 | 真空管内で電子ビームとRF波を相互作用させ増幅 | GaAs/GaNトランジスタの多段合成 |
| 効率 | 50〜65%と高い | 従来20〜40%(GaNで向上中) |
| 得意域 | 大電力(数十W〜)・高周波(Ka) | 中小電力・低電圧・小型 |
| 留意点 | 数kVの高圧電源(EPC)が必要 | 熱密度・合成損失 |
深宇宙機の大電力送信は伝統的にTWTAが担ってきた。効率60%でも RF 100 Wを出すにはDC 170 Wを消費し、70 Wが熱になる—— 通信系が電力・熱設計の大口顧客である理由がここにある(第5.3章)。 増幅器は効率最優先で飽和近傍で使うため、振幅に情報を載せない 定包絡線変調が選ばれる(第2.1章9節)という因果もここで閉じる。
増幅器の線形性を語る共通語がP1dB(利得1 dB圧縮点)である。入力を上げると 出力が比例しなくなり、小信号利得より1 dB低くなった点をP1dB、さらに上の出力上限を 飽和点と呼ぶ。飽和までの「余らせ具合」がバックオフ(入力側IBO/出力側OBO)で、 深宇宙の下りは定包絡線変調(第2.1.9節)を使うため飽和運用(バックオフほぼゼロ)で 効率を取れるのが強みである。逆に複数搬送波を同時に増幅すると相互変調積が生じるため 数dBのバックオフが要る——「1台のHPAで何波送るか」は効率と歪みのトレードとして 設計初期に決める。飽和近傍では振幅変動が位相変動に化けるAM/PM変換も起きるため、 増幅器の位相特性は測距・計測(第3章)の群遅延安定性にも波及する。
4.1.3 受信側 — 機上LNAの現実
機上受信系の雑音温度は数百K〜1000K程度で、地上局(20K)より1桁半悪い。 冷却器を積めない・アンテナが小さく地球方向以外の放射も拾う・ ダイプレクサ経由の損失が前段に入る、が理由である。それでも上り回線が成立するのは、 地上局のEIRPが100 dBWを超える(第1.2章7節)からであり、 「上りは地上の電力で、下りは地上の低雑音で」支える非対称設計になっている。
4.1.4 ダイプレクサ — 10桁の分離
1本のアンテナで送受同時運用するとき、送信は数十W(+40 dBm超)、 受信すべき上りはpW(−90 dBm以下)——同じ給電点で10桁以上違う電力を扱う。 送信波がLNAに漏れれば飽和・破損するため、ダイプレクサ(送信帯/受信帯の 2つの帯域通過フィルタを1つのアンテナポートに束ねた回路)が両者を分離する。
フィルタ設計には本質的なトレードオフがある。次数nのフィルタの帯域外減衰は おおよそ 20n·log(周波数比) で効くので、次数を上げるほど分離は良くなる。 しかし共振器を通るたびに僅かな損失が積むため、次数を上げるほど通過損失も増える。 通過損失は送信側では EIRP の直接の目減り、受信側では雑音温度の直接の悪化 (第1.4章2節: LNAより前の損失は最悪)としてリンクバジェットに現れる。 X帯の上り/下り比(8.4/7.2 ≈ 1.17)という「分離しやすい周波数配置」自体が、 このフィルタ設計を成立させるための周波数計画である。
4.1.5 伝送線路とVSWR
機器間を結ぶのは同軸ケーブル(柔軟・損失大)か導波管(低損失・剛体)である。 接続部のインピーダンス不整合は反射を生み、VSWR(電圧定在波比)で管理する。 VSWR 1.5は反射損失約0.18 dB——1箇所なら小さいが、系統全体で積むと dB級になるため、RF系統図には各区間の損失・VSWRが記入され、 その合計が回線計算書の「給電損失」1行の中身になる。 回線計算書の1行の裏には、必ず系統図の積み上げがある。
4.1.6 冗長設計 — 壊れても致命的にしない
深宇宙機は修理不能なので、設計の重心は「壊れないこと」ではなく 「どこが壊れても回線が全滅しないこと」に置かれる。 標準構成はトランスポンダ2台・増幅器2台をRFスイッチでクロスストラップ (どの受信機からどの送信機へも接続可能)した2重冗長である。 受信機は2台とも常時オン(コマンド受信は生命線であり、切替コマンド自体が 届かなくなる事態を避ける)、送信系は片系運用が普通である。 直列に入る素子(ダイプレクサ・スイッチ・アンテナ)は単一故障点(SPF)になりうるため、 受動部品で固める・LGA系統は最小構成で独立させる、などの手当てをする(図4.1-2)。
4.1.7 よくある疑問
Q. RF系統図を読むとき、まずどこを見るべきか?
A. ①信号の通り道を上り・下り別々になぞる(受信: アンテナ→ダイプレクサ→LNA→ 受信機、送信: 励振部→増幅器→ダイプレクサ→アンテナ)。②切替スイッチの全状態で 経路が成立するか。③LNAより前に何dBの損失があるか(=雑音温度への直撃)。 この3点で系統図の8割は読める。
Q. 送信中は受信できないのではないか?
A. できる。周波数が離れており(ターンアラウンド比)、ダイプレクサが 分離しているので、深宇宙機は原則「全二重」——受信しながら送信する。 これが2-way計測(受けながら折り返す)の前提でもある。
Q. 増幅器の「バックオフ」とは何か?
A. 飽和点から意図的に出力を下げて運転すること。線形性が要る変調 (振幅に情報を持つAPSK等)では歪みを抑えるために必要になる。 定包絡線変調で飽和運転できることが深宇宙標準方式の強みである。
- トランスポンダ=受信PLL+整数比シンセサイザ。比の標準化がクロスサポートを支える。
- TWTAは高効率大電力だが高圧電源と熱を伴う。飽和運転前提が変調方式を規定する。
- ダイプレクサは10桁の送受分離を担い、次数と挿入損失のトレードで設計される。
- 系統図の損失の積み上げが回線計算書の「給電損失」1行の実体。
- 冗長は2重+クロスストラップ、受信機は常時2台オンが定石。
第4.2章地上局システム — 巨大アンテナの解剖
回線計算でG/TやEIRPの1行に畳み込まれている地上局を、構造・追尾・送信・ 周波数系・ベースバンド・スケジューリングに分解する。 局を「使う側」になったとき何を確認すべきかが分かるようになる。
4.2.1 光学系としての大型アンテナ
大型局はカセグレン式(主鏡+副鏡)が基本で、さらにビームウェーブガイド(BWG)方式では 複数の平面鏡で電波を地下の機器室まで導く。低雑音受信機や大電力送信機を アンテナ上ではなく安定した室内に置ける・保守が容易・複数バンドの切替が楽、 という利点があり、美笹54 m局もこの方式である。ミラーの1枚1枚が損失と 雑音の源になるため、光学設計そのものがG/Tの一部である。
4.2.2 指向と自動追尾
基本は予測値によるプログラム追尾で、ビーム幅(X帯34 mで約0.06°)に対し 予測は十分正確である。より高精度が要る場合は受信信号自身から指向誤差を検出する 自動追尾(モノパルス: 和・差パターンの比較で誤差角を即時に得る)を併用する。 風・熱変形・重力たわみは指向誤差予算(第1.3章)として管理され、 大型局には形状補償(アクティブ支持)を持つものもある。
これらを司る装置がACU(アンテナ制御装置)である。ACUはプレディクト (角度予測ファイル)を読み込んで軸を駆動し(プログラム追尾)、 受信信号が十分強ければモノパルスやコニカルスキャン(ビームをわずかに円運動させ 受信レベルの変動から誤差方向を得る方式)による自動追尾へ切り替える。 使い分けの原則は「弱信号・捕捉前はプログラム追尾、安定受信中は自動追尾」—— 自動追尾は信号があって初めて成立するので、初捕捉やコンティンジェンシー (第5.2.5節)では必ずプログラム追尾から入る。指向の系統誤差は指向モデル (軸の直交誤差・たわみ・エンコーダオフセットの数式モデル)として管理し、 電波星の十字スキャンで定期較正する——アンテナにも較正の連鎖(第5.4.2節)がある。
4.2.3 送信系と保安
20 kW級の送信はクライストロン/大型TWTAが担う。ビーム内の航空機・衛星保護のため 送信停止手順や空域監視と連動した放射保安が組み込まれており、 「上りをいつでも出せるとは限らない」ことは運用計画の制約条件になる。
4.2.4 局の周波数・時刻系
局全体は水素メーザを頂点とする基準周波数系に同期しており、 受信・送信・測距・時刻打刻のすべてがこの1本の「ものさし」から派生する(第3.2章)。 観測データ(ドップラ・レンジ)の品質は局の周波数系の品質そのものであり、 メーザの保守状態は航法チームの関心事である。
実体としての時刻・周波数標準装置は、水素メーザ(短期安定度)とGNSS受信 (UTCとの長期比較)を組み合わせ、分配増幅器で10 MHz基準と1PPS(毎秒パルス)を 局内全装置へ配る構成をとる。受信データへの時刻打刻(タイムタグ)もこの1PPSに 揃えられ、測距・ドップラ観測量のタイムタグ精度(第3.2.8節)はここで決まる。 メーザは連続運転が命であり、停電・空調停止が観測データの品質事故に直結するため、 局インフラの中でも最も手厚く冗長化・監視される装置である。
4.2.5 ベースバンドと追跡データ
復調・復号(第2.4章)と並んで、局は測距装置(PN送受・相関)と ドップラ計数器を備え、観測量をTDM(トラッキングデータメッセージ)として 軌道決定側へ配送する(第3.3章)。テレメトリはSLE(第4.3章)でMOCへ流れる。 「1つの局が、通信・航法の両方のデータ工場である」ことが分かると、 パスの価値の見積り方が変わる。
4.2.6 局舎の機器連鎖 — 電波が信号になるまで
局舎の中の装置を信号の流れで並べると図4.2-1になる。送信は モデム(変復調装置)が符号化・変調した信号をIF(中間周波数。例: 数百MHz帯)で 作り、アップコンバータがRF(S/X/Ka帯)へ変換し、HPA(大電力増幅器。 クライストロンや大型TWTA、20 kW級)が電力を与え、給電系がアンテナへ導く。 受信はその逆で、アンテナからの微弱信号を冷却LNAが最初に増幅し、 ダウンコンバータがIFへ落とし、モデムが復調・復号する。
なぜ一旦IFを挟むのか。増幅・フィルタリング・分配・長いケーブル引き回しは 低い周波数のほうが桁違いに扱いやすく、モデム以下の装置を周波数帯によらず共通化 できるからである。RFとIFの間の変換はミキサと局部発振(LO)で行い、LOは基準周波数系から 合成される——局内のあらゆる周波数の正しさが水素メーザ1本に遡る構造 (第4.2.4節)はここで実装されている。
冷却LNAは物理温度15〜20 Kに冷やしたHEMT増幅器で、冷却は密閉サイクルの クライオクーラ(極低温冷凍機)が担う。冷やす理由は第1.4章の通り雑音温度の直減であり、 常温LNA(100 K前後)との差がそのままG/Tの差になる。クライオクーラは定期保守が必要な 機械装置なので、その停止計画は局スケジュール(第4.2.7節)の制約条件になる。
HPAの運用では飽和・バックオフ(第4.1.2節のP1dBの議論がそのまま適用される)に加え、 大電力ゆえの保安——導波管内の放電(アーク)検知での即時遮断、導波管の乾燥空気加圧——が 付いて回る。モデムは現代ではソフトウェア無線化されており、第2章の全アルゴリズム (変調・符号・搬送波追尾・シンボル同期)と測距信号の生成・相関(第3.1章)、 ドップラ計数(第3.2章)までを1つの装置群が担う。受信機のAGC制御値は較正されて 受信電力の測定値として記録され、運用監視(第5.4.4節)の一次データになる。
これら全装置の設定と状態監視を束ねるのが監視制御系(M&C)である。 パス計画に従いミッションごとの設定ファイル(周波数・変調・符号・レート・接続先)を 各装置へ一括投入し、状態を集約して運用者と遠隔の運用センターへ見せる。 登録点検(第5.4.3節)で検証するのはまさにこの設定の束であり、 「局が正しく動く」とは「M&Cが正しい設定を配れる」ことと同義になっている。
4.2.7 スケジューリングという恒常的な奪い合い
深宇宙局は世界に少数しかなく、常に複数ミッションが時間を奪い合う。 割当は数週間〜数ヶ月前から調整され、クリティカルイベント(着陸・軌道投入)が 最優先、定常運用がその隙間を埋める。「回線が成立すること」と 「局が取れること」は別問題であり、通信系設計はパス時間が限られる前提で データ量(第2.2章)を成立させなければならない。国際クロスサポート(第6.1章)は この制約を緩める互助でもある。
▶ さらに深く: 大型局アンテナの設計はImbriale『Large Antennas of the Deep Space Network』(DESCANSO、無料PDF)。局性能の実数値はDSNハンドブック810-005(付録C)。
4.2.8 よくある疑問
Q. 局の「対応可能条件」を確認するとき、最低限見るべき項目は?
A. 周波数帯と偏波、対応変調・符号・レート範囲、測距方式(PN種別)、 G/T・EIRP(仰角依存含む)、SLEサービス種別。これらが機体側の設計と噛み合って 初めてパスが成立する。コンパチビリティ試験(第5.1章)はこの噛み合わせの実証である。
Q. 悪天候で局を切り替えることはできるのか?
A. 同じ経度帯に代替局があれば可能で、Ka帯運用では天候による 局切替・サイトダイバーシティ(第1.5章)が計画に組み込まれる。 ただし局ごとの設備差(対応レート等)があるため、切替先でも成立する 運用モードをあらかじめ持っておくことが設計側の備えになる。
- BWG光学系が低雑音・大電力・多バンドを両立させる。光学設計はG/Tの一部。
- 追尾はプログラム+モノパルス自動追尾。指向誤差予算で管理。
- 局は水素メーザ基準の周波数系で貫かれ、通信と航法観測の両工場である。
- 局時間は希少資源。スケジューリング制約込みでデータ量を設計する。
第4.3章プロトコルスタック — ビットの上の約束事
物理層(第I・II部で学んだ全て)の上には、パケット・フレーム・ファイル・ネットワークの 階層が積まれている。CCSDSスタックの全体図と、各層が「何の問題を解いているか」を 1つずつ掴む。設計にも運用にも、この地図は毎日必要になる。
4.3.1 スタックの全体図
下から上へ「ビット→フレーム→パケット→ファイル」と意味が組み上がる。 各層は独立に標準化されているため、変調だけ・符号だけを差し替えても 上位層は無傷で動く——この疎結合が数十年運用と国際協力を可能にしている(図4.3-1)。
4.3.2 スペースパケットと仮想チャネル
機上の各機器・各データ種別はAPID(アプリケーションID)を持つ スペースパケットを生成する。可変長で、テレメトリの意味的な単位である。 パケットは転送フレーム(TM: 固定長/AOS/統合後継のUSLP)に詰められて送られる。 フレームには仮想チャネル(VC)という多重化の仕組みがあり、 「リアルタイムHK」「再生データ」「観測データ」を同じ物理リンクで 優先度をつけて混ぜられる。運用者が日々見るのは「どのVCがどれだけ流れているか」である。
スペースパケット(CCSDS 133.0-B)の一次ヘッダは6バイトで、バージョン・APID・ シーケンスカウンタ・データ長だけを持つ。極小のヘッダで発生源と順序を識別する、 という割り切った設計であり、テレメトリ処理系はまずAPIDで振り分けてから中身を解釈する。
パケットを運ぶ転送フレームには世代の異なる3つの規格があり、使い分けを知っておくと 文書が読みやすくなる。
| 規格 | 文書 | 特徴 | 主な使いどころ |
|---|---|---|---|
| TMフレーム | 132.0-B | 固定長・下り専用。RS符号と相性がよい伝統的形式 | 従来の深宇宙下り |
| AOSフレーム | 732.0-B | 固定長VCDUを常時連続で流す。VCカウンタが長く高レート向き | 高レート下り・中継・有人系 |
| USLP | 732.1-B | 可変長も可。TM/TC/AOSを統合する後継規格 | 新規ミッション |
AOS(Advanced Orbiting Systems)の要点は「常にフレームを流し続ける」ことにある。 送るデータがなくてもアイドルフレームでストリームを維持するため、受信側の同期と復号器が 途切れず、高レートでも安定する。パケットを詰めるM-PDU、生のビット流を運ぶB-PDUという 2種の載せ方を持つ。Ka帯による下りの高レート化に伴い、深宇宙でも採用が増えている。 なお運用用語のAOS(Acquisition of Signal=可視開始、第5.1章)とは同じ綴りの別物なので 文脈で区別すること。
スペースパケット一次ヘッダの中身は次の通りである。全部で48ビット——この小ささが、 あらゆる機上機器に同じ形式を強制できた理由でもある。
| フィールド | ビット | 役割 |
|---|---|---|
| バージョン | 3 | 000固定 |
| タイプ | 1 | 0=テレメトリ/1=コマンド |
| 副ヘッダフラグ | 1 | 時刻等の副ヘッダの有無 |
| APID | 11 | 発生源(最大2048種)。運用DBの基幹 |
| シーケンスフラグ | 2 | 分割パケットの先頭/中間/末尾/単独 |
| シーケンスカウンタ | 14 | APIDごとの通し番号。欠落検知に使う |
| パケット長 | 16 | データ部の長さ−1(最大65536バイト) |
フレーム側の要点は2つある。第一に、TMフレームの仮想チャネルカウンタは8ビット (256フレームで一周)だがAOSは24ビットあり、高レートでも巻き戻りによる曖昧さが生じにくい。 第二に、パケットとフレームの境界は独立で、パケットはフレームをまたいで詰められる。 この再同期を支えるのが先頭ヘッダポインタ(FHP)である(図4.3-2)。
4.3.3 上りと下りの結び目 — CLCW
下りフレームにはCLCW(コマンドリンク制御ワード)が載り、 機上のコマンド受理状況(COP-1のFARMカウンタ、第2.5章)を地上へ報告する。 上りと下りはプロトコル的にここで結ばれており、 「コマンドが受かったか」は下りテレメトリのCLCWで確認する、が運用の基本動作である。
COP-1の中身は送信側のFOP-1と受信側のFARM-1という一対の状態機械である。 ADフレーム(順序保証あり)は機上のカウンタV(R)と一致したときだけ受理され、 結果がCLCWのlockout・wait・retransmitフラグと次期待番号で地上へ返る。 地上のFOP-1はこれを見て未確認フレームを再送する(go-back-N型)。 非常時はカウンタ照合を通らないBDフレーム(バイパス)で強制的に通す—— セーフモード復旧の第一手がBDなのはこのためである。
4.3.4 CFDP — 深宇宙はファイルで運ぶ
往復光時間が長い環境では、パケット単位の逐次確認は非効率である。 CFDPはファイル単位で転送し、欠けた部分だけを後からNAKで再送要求する (クラス2: 信頼転送)。「まず全部送る→欠落リストを返す→穴だけ埋める」 という設計は、遅延が大きい回線での再送の正解形である。 欠測が許されない観測データ(第2.2章Q&A)はCFDPで完全性を保証する。
CFDPには2つのクラスがある。クラス1は確認なしの一方向転送で、下位の符号化に 完全性を委ねる。クラス2は信頼転送で、Metadata(ファイル名・サイズ)→File Data セグメント群→EOF(チェックサム)と送り、受信側は受信完了後に欠落セグメントの リストをNAKでまとめて返す(遅延NAK)。送信側は穴だけを再送し、受信側がFinishedで閉じる (図4.3-3)。往復40分の火星でも、再送は「ラウンド数回」で済む。
実装上のパラメータはすべて往復光時間から決まる。NAKタイマ・ACKタイマ・ トランザクション有効期限を距離に応じて再設定するのは運用の定常作業であり、 パスをまたぐ転送の中断・再開(サスペンド/レジューム)も仕様に含まれる。 オンボードレコーダの観測データを「ファイル」として管理し、CFDPで下ろし、 地上のファイルカタログと突き合わせる——これが現代の深宇宙データ回収の標準形である。
4.3.5 DTN — つながっていない時間を前提にする
探査機ネットワークは「常時接続」ではない。DTN(遅延・断耐性ネットワーク)は 蓄積転送を原則とし、バンドル(データ塊)を各ノードが保持しながら 接続機会(コンタクト)が来たら次へ渡す。接続計画表から経路を選ぶ コンタクトグラフルーティングにより、中継が自動化される。 月・火星圏で中継機が増えるほど、この層の重要性が上がる(第6.3章)。
データの単位はバンドルで、送信元・宛先・生成時刻・寿命(これを過ぎたら
各ノードが破棄してよい)を持つプライマリブロックに、ペイロードと拡張ブロックが続く
(BPv7、CCSDS 734.2-B)。宛先はipn:ノード番号.サービス番号という形式の
EIDで指定する。IPアドレスと違い「今つながっているか」を前提にしない名前である。
バンドル層の下には収束層が入り、区間ごとに適切な転送を使う。地上区間はTCP、 宇宙リンクはLTP(CCSDS 734.1-B)が標準で、確認・再送するred部分と ベストエフォートのgreen部分をデータ内で使い分けられる。経路は各リンクの可視時間帯を 記した接続計画表から選ぶ(コンタクトグラフルーティング)。ノードは接続待ちのバンドルを 不揮発ストレージに保持するため、ストレージ容量と接続計画がネットワークの設計値になる (図4.3-4)。月圏のLunaNetや火星中継網は、この枠組みの上に計画されている。
4.3.6 SLE — 地上局と運用センターの標準インタフェース
局が復調したフレームは、ネットワーク越しに遠隔の運用センター(MOC)へ届いて 初めて意味を持つ。この「最後の区間」を標準化するのがSLEである。 局側(プロバイダ)とMOC側(ユーザ)が BIND→START→TRANSFER-DATA という 共通手順で会話し、代表サービスとして RAF(全フレーム転送)・RCF(指定VCのみ転送)・ CLTU(コマンド送出)・FSP(フォワードパケット)がある。 どの機関の局でも同じ手順でデータが受け取れる——クロスサポート(第6.1章)の 地上側の実体がこれである。
実運用で意識するのは配送モードである。オンラインtimely(遅延最小・混雑時は 古いフレームを捨てる。リアルタイム監視用)、オンラインcomplete(順序・完全性を保証。 処理用)、オフライン(パス終了後に蓄積分を一括転送)を用途で使い分ける。サービスは 局スケジュールとセットの「サービスパッケージ」として事前に予約され、パスの時間割と 一体で管理される。
SLEの転送基盤はISP1(CCSDS 913.1-B)というTCP/IP上の共通手順が担う。 一方、JAXAの国内追跡網では同じ役割を担うプロトコルとしてSDTP (宇宙データ転送プロトコル)が使われてきた。国内局と運用系の間はSDTP、 海外機関の局を借りるクロスサポートではSLE——という使い分けが実務の姿である。 SDTPはTCP上でCCSDSフレームやCLTUに局側の付帯情報(受信時刻・回線品質・ドップラ等)を 付けてカプセル化する軽量プロトコルで、追跡局と衛星管制系のリアルタイム接続を担う。
セッションの一生を図4.3-5に示す。接続はBINDで始まり、互いの識別・版数・ 対象サービスインスタンス(どの機体のどのVCか)を交わす。BINDが拒否される典型は 識別情報・版数の不一致とスケジュール外のアクセスで、パス冒頭のトラブルの定番である。 STARTで転送対象の時間窓を指定し、以後TRANSFER-DATAがフレームを流す。 FCLTUではCLTUの送出依頼に対して放射報告(実際に電波として放射した開始/終了時刻)が 返る——これはコマンドの到達予測と応答確認(第5.1章のタイムライン)の公式な起点になる。
運用準備の実体はサービスインスタンス設定の管理である。ミッション・局・ サービス種別ごとの識別子と版数・配送モード・バッファ量を設定ファイルとして取り交わし、 登録点検(第5.4.3節)で疎通を検証しておく。パス中の監視は「局が復調したフレーム数と MOCに届いたフレーム数の一致」が基本で、差があればオンラインtimelyの棄却か ネットワーク断であり、completeモードの再転送またはパス後のオフライン回収で埋める。 「リアルタイムで見る」と「完全に集める」を別のサービスとして設計しておくのが SLE運用の型である。
4.3.7 セキュリティ — SDLSとコマンド認証
コマンド回線の乗っ取りは最悪の脅威であり、リンク層の暗号・認証(SDLS)や コマンド認証カウンタで防御する。深宇宙は距離自体が障壁だが、 「認証なしのコマンド受理は設計として許されない」時代になっている。
4.3.8 よくある疑問
Q. 新人はどの規格書から読めばよいか?
A. CCSDSは色分けされている——Blue Book(勧告=規格本体)、 Green Book(解説)。まず該当分野のGreen Bookで思想を掴み、 Blue Bookは「必要な節を引く辞書」として使うのが早い。 本書の各章がGreen Bookへの橋になるよう書いてある。
Q. 運用中にプロトコル層で最初に見る画面は?
A. フレーム同期状態とVC別フレームカウント、そしてCLCWである。 物理層のロック(第5.1章)の次は、この3つで「意味のあるデータが流れているか」を確認する。
4.3.9 CCSDS標準文書の地図
CCSDSの文書は「131.0-B」のような番号で呼び合う。番号と役割の対応を一度頭に入れると、 仕様書・議事録・他機関との調整文書が格段に読みやすくなる。主要文書と本書の対応を示す (-Bは勧告規格Blue Book。国内ではJERG-2-400番台の設計標準がこれらに対応する)。
番号は分野を表す: 1xx=テレメトリ側リンク、2xx=コマンド側リンク、3xx=時刻等の共通データ、 4xx=RF・変調・測距、5xx=航法データ交換、7xx=ネットワーク・ファイル転送、9xx=地上クロスサポート。 末尾の色記号は文書の性格で、B(Blue)=規格、G(Green)=背景解説、M(Magenta)=推奨実装である。 迷ったらまずGreen Bookを読むと全体像がつかめる。
| 番号 | 通称 | 決めている内容 | 本書 |
|---|---|---|---|
| 401.0-B | RF・変調 | 周波数・変調方式・スペクトルマスク | 第2.1章 |
| 131.0-B | TM同期・符号化 | ASM・LDPC/Turbo/RS/畳み込み | 第2.2章 |
| 231.0-B | TC同期・符号化 | BCH・CLTU・PLOP | 第2.5章 |
| 232.0-B | TCデータリンク | TCフレーム・COP-1再送制御 | 第2.5章 |
| 132.0-B | TMデータリンク | 固定長TMフレーム・仮想チャネル | 第4.3章 |
| 732.0-B | AOS | 高レート向け連続フレーム流 | 第4.3章 |
| 732.1-B | USLP | TM/TC/AOSの統合後継 | 第4.3章 |
| 133.0-B | スペースパケット | APID・可変長パケット | 第4.3章 |
| 727.0-B | CFDP | ファイル転送・選択再送 | 第4.3章 |
| 734.2-B | Bundleプロトコル | DTN(蓄積転送)のコア | 第4.3章 |
| 355.0-B | SDLS | リンク層セキュリティ・コマンド認証 | 第4.3章 |
| 414.1-B | PNレンジング | 測距符号系列と再生方式 | 第3.1章 |
| 506.1-B | ΔDORデータ交換 | 局間の生データ書式 | 第3.2章 |
| 301.0-B | 時刻コード | CUC/CDS等の時刻表現 | 第3.3章 |
| 503.0-B | TDM | 追跡観測量の機関間交換 | 第3.3章 |
| 502.0-B | ODM | 軌道情報の交換(OEM/OPM等) | 第3.3章 |
| 911/912/913 | SLE・ISP1 | 局〜運用センター間のデータ転送 | 第4.3章 |
- スタックは パケット→フレーム(VC多重)→符号化→RF。疎結合が長寿命の鍵。
- 上りと下りはCLCWで結ばれる。コマンド確認はテレメトリで行う。
- 長遅延の再送はファイル単位(CFDP)、断続接続は蓄積転送(DTN)が正解形。
- SLE(RAF/RCF/CLTU)が局とMOCを標準で結び、クロスサポートを実体化する。
- コマンドは認証(SDLS)まで含めて設計する。
第5.1章試験と運用
机上の回線計算を現実に接続するのが試験と運用である。諸元をどう実測で裏付け、 パスをどう計画し、太陽合や非常時にどう備えるか——設計・試験・運用が一本につながる。
5.1.1 回線諸元の実証試験
回線計算の入力は、次のように実測で裏付ける。
| 諸元 | 実証方法 |
|---|---|
| EIRP | 較正済み受信設備(コンパクトレンジ・較正局)で放射電力を測定。 |
| G/T | Y-ファクタ法: 高温源/低温源(天体電波源や吸収体)を切り替えて受信電力比 Y を測る。 Y = \frac{T_{hot}+T_{rx}}{T_{cold}+T_{rx}} から T_rx を解き、利得と合わせてG/Tを得る。 |
| 復調性能 | BER対E_b/N_0曲線を実測し、理論曲線からのずれを実装損失として回線計算に計上。 |
| 測距遅延 | トランスポンダ群遅延を温度を振って測定し較正テーブル化。局側は既知遅延のループバックで較正。 |
5.1.2 パス冒頭の捕捉シーケンス
運用の1パスは決まった手順で始まる。 ①予報軌道に基づき局アンテナを指向、受信設定。 ②上り搬送波を送信し、計画した速度で周波数掃引(第2.3章の上限に従う)。 ③往復光時間の後、下りがコヒーレントモードに切り替わったことで機上ロックを確認。 ④測距変調を加え、PN符号を捕捉して距離計測開始。 火星なら③の確認だけで往復30分——深宇宙運用は光速の遅さをタイムラインに織り込むことが本質である。
5.1.3 パス計画とデータ回収
回収できるデータ量は「そのときのレート×時間」の積分である。仰角が上がると大気損失が減り、 天候が良ければKa帯が使える。そこで仰角・天候に応じてレートを段階的に切り替える計画を立て、 必要データ量と突き合わせる。Ka帯は天気予報でレートを決め、悪天ならX帯へフォールバックする。 太陽合(第1.5章)の前後にはクリティカル運用を置かず、合期間は低レート・高マージンの保全運用とする。
5.1.4 非常時の設計
姿勢を失った探査機を救うのは、全方向をカバーするLGAと数bps〜数十bpsの極低レート回線である。 レートを3桁落とせばE_b/N_0は30 dB稼げる(第1.2章)——どんな姿勢でも「聞こえる」回線が成立する。 この非常回線の成立性は、平時に最悪条件(最悪姿勢・最大距離・悪天候)で回線計算して確認しておく。 回線計算とは、最悪の日のための保険設計でもある。
5.1.5 開発フローの中の通信系試験
通信系試験は開発段階に応じて積み上がる。 ①単体試験: トランスポンダ・増幅器の電気性能(周波数特性・群遅延・スプリアス)。 ②コンパチビリティ試験: 地上局設備の可搬版(RFスーツケース)と実機を電波で接続し、 変調・符号・測距・掃引捕捉の互換性を打上げ前に実証する。 「規格どおりに作った両者が本当に噛み合うか」はここで初めて確かめられる。 ③射場・軌道上: 初期捕捉とチェックアウトで飛行性能を確認し、 回線計算の前提(EIRP・G/T・実装損失)を飛行実測値で更新する。
5.1.6 初期捕捉 — 最初の交信という山場
打上げ直後は軌道誤差が大きく(周波数・角度とも予測が粗い)、機体はLGA・低レート、 タンブリング中ならアンテナ利得も変動する。このため初期捕捉は 「広い掃引範囲・遅い掃引・低レート・広角アンテナ」という最も保守的な設定で行い、 ロック確立後に段階的に高性能側へ移行する。第2.3章の捕捉理論が最も真剣に使われる場面である。
5.1.7 ロックが外れたときの切り分け
回線異常は系統的に切り分ける。 ①受信レベル(AGC)は正常か → 低ければ指向・天候・機体姿勢を疑う。 ②搬送波ロックのみか、ビット同期・フレーム同期まで落ちたか → 落ち方の順序が マージン不足の場所(搬送波系かデータ系か)を示す。 ③予定外のドップラ変化はないか → 姿勢異常・軌道イベントの兆候。 ④局側の設定(周波数予測・掃引・符号設定)は正しいか → 人為誤りは常に候補。 回線計算の3チャネルのマージン(本ツールの表示)がそのまま切り分けの地図になる。
5.1.8 よくある疑問
Q. 回線計算と実測はどのくらい合うものなのか?
A. 諸元を実測で更新した後なら、受信C/N_0で±1 dB程度に合うのが健全である。 恒常的なずれは較正漏れ(基準面の取り違え・経年劣化・指向バイアス)のサインであり、 「ずれを説明できること」自体が通信系エンジニアの成果物になる。
Q. 天候によるKa帯の運用判断はどう行うのか?
A. 数時間前の気象予報と現地放射計の実測から当日の大気損失を見積り、 レート表(仰角×天候→最大レート)に従って計画を確定するのが典型フローである。 判断とレート切替をシーケンス化しておくことが、Ka帯運用を日常にする鍵である。
Q. 通信系エンジニアとして最初に身につけるべき感覚は?
A. 3つ。①dBの暗算(1.2.6節)——議論の速度についていく基礎体力。 ②「その数値の基準面と前提はどこか」を確かめる習慣(1.4.4節)。 ③マージンを「物理のどこで稼ぎ、どこで失っているか」の物語として語れること(1.2.8節)。 本書の12章はこの3つの土台である。
5.1.5 本書と計算コンソールの対応
| 章 | 対応タブ |
|---|---|
| 第1.2章 リンクバジェット | リンクバジェット/かんたん設計/設計制御表 |
| 第1.3章 アンテナ | アンテナ/幾何・偏波 |
| 第1.4・1.5章 雑音・伝搬 | リンクバジェット(大気・Tsys自動計算)/伝搬・追尾 |
| 第2.1章 変調 | リンクバジェットの変調・チャネル/変調・データ |
| 第2.2章 符号 | 符号化選択・データ量 |
| 第2.3章 捕捉追尾 | 捕捉・追尾 |
| 第2.5章 コマンド | リンクバジェット(上りモード) |
| 第3.1・3.2章 測距・RARR | RARR測距測速/測距誤差/ドップラ |
- EIRP・G/T・実装損失・群遅延は試験で実測し、回線計算に還流させる。
- 捕捉シーケンスは往復光時間を織り込んだタイムラインで設計する。
- パス計画は仰角・天候によるレート段階切替で最適化する。
- 非常系はLGA+極低レート。最悪条件の回線計算が保険になる。
第5.2章特殊な運用シナリオ
定常運用の外側——セーフモード、大気圏突入のブラックアウト、中継、 複数機同時追跡——で通信系がどう振る舞うかを学ぶ。 設計の真価は、これら「例外の日」に現れる。
5.2.1 セーフモード通信
機上で重大異常が検出されると、探査機は自律的にセーフモードへ落ちる: 太陽電池を太陽に向ける安全姿勢を取り、通信はLGA・極低レート・ 最小構成(多くは非コヒーレントの下りビーコン+コマンド待受)に切り替わる。 通信系設計の責務は、この状態の上り/下りが最悪条件で成立することを あらかじめ計算で保証しておくことである(第6.2章5節はその実演)。 運用側は「ビーコンが見える=生きている」から始めて、 低レートテレメトリ→診断→復旧、と階段を上る。この階段の回線設計上の意味は第5.2.5節で詳述する。はやぶさの復旧(第6.1章)は この階段の極限例である。
5.2.2 EDLブラックアウト — プラズマに包まれる数分間
大気圏突入(EDL)では、極超音速の衝撃波が大気を熱電離し、機体が プラズマシースに包まれる。プラズマ周波数 f_p ≈ 8.98√n_e (第1.5章)に対し、 突入時の電子密度は太陽コロナより桁違いに濃く(10¹⁸〜10²⁰ m⁻³)、 f_p が搬送波周波数を超えると電波は伝搬できず指数減衰する—— これが通信ブラックアウトである。火星EDLの「恐怖の7分間」は、 往復光時間ゆえ地上介入が不可能なうえ、この遮断が重なる。
対策は3つ。①周回中継機経由のUHFリンク(シースの薄い方向へ逃がす)、 ②復調を要さないトーンビーコン(イベント進行を音色の切替で通報—— 搬送波検出だけなら低SNR・断続でも拾える)、③オープンループ記録(第2.4章)で 後解析に賭ける。「その瞬間に介入する」のでなく「確実に記録し、確実に知らせる」 設計に切り替わるのが本質である(図5.2-1)。
5.2.3 中継アーキテクチャ — 着陸機は直接地球と話さない
火星の着陸機・ローバの主データ経路は、地球直接ではなく 周回機へのUHF近距離リンク(Proximity-1プロトコル)である。 距離が数百〜数千kmと近いため、小さなアンテナ・低電力で高レートが成立し (第1.2章: 距離2乗の恩恵を逆向きに使う)、周回機が大きなアンテナで 地球へまとめて転送する。中継の蓄積転送はDTN(第4.3章)の思想そのもので、 月・火星圏のネットワーク化の原型になっている。
5.2.4 複数機同時追跡
同じ天体圏に複数機がいる場合、1局のビーム内で複数機を同時受信する 運用(MSPA)が使われる。下りは同時に受けられるが、上り搬送波は通常1機分しか 出せないため、2-way計測は交代で行う——「誰がコヒーレントか」を パス計画で管理する。編隊・中継が増える将来はこの調整が常態になる。
5.2.5 コンティンジェンシー運用 — 想定外を想定内に引き込む
コンティンジェンシー運用の本質は、異常が起きてから考えることではなく、 起こりうる異常を事前に列挙し、承認済みの手順に変えておくことにある。 パスの往復光時間と可視時間の制約の中で、その場の議論に使える時間はほとんどない。 「この事象ならこの手順」というコンティンジェンシー手順書と、その発動条件・権限 (誰の判断でどこまで打てるか)を平時に決めておくことが、異常時の速度と安全を両立させる。
異常対応の第一原則は「状況を悪化させない」である。原因不明の段階でむやみに コマンドを送らず、まず機体状態を凍結して情報を集める。多くの機関で 「最初のパスは観察に徹する」ことが定石とされるのは、誤った復旧操作こそが 軽微な異常を致命傷に変える最大の要因だからである。
最も厳しいシナリオである通信途絶には、三段構えで臨む。 ①予測ベースの再捕捉: 最後の軌道決定解と想定姿勢から受信周波数の不確定幅を 見積もり、掃引範囲を広げて捜索する(第2.3章)。 ②オープンループ記録受信: 受信機のループを閉じず広帯域をそのまま記録し、 地上でFFTの長時間積分によりキャリアを探す。PLLが追尾できない弱さの信号でも 「存在」は検出できる。 ③ブラインドコマンディング: 下りが無くても、受かっている保証がなくても、 想定される受信構成に向けてコマンドを送り続ける。機上のコマンドロスタイマによる 構成巡回(第5.3.5節)と組み合わせることで、「いつかどこかで噛み合う」状況を 地上と機上の双方から作りに行く。
下りが極端に弱い・細い状況では、1ビット通信が成立する。テレメトリを 変調して送る能力を失っても、搬送波のON/OFFや周波数の切替そのものを「返事」として 使う方法である。地上から質問コマンドを送り、機上は条件が真ならビーコンを切り替える—— のぞみは電源系の問題でテレメトリ送信ができなくなった際、この方式で機体状態を 1ビットずつ聞き出しながら運用を続けた。はやぶさの7週間の通信途絶からの復旧 (第6.1章)も、ビーコン検出→1ビット応答→低レートテレメトリという階段を上っている。
この「復旧の階段」を回線の言葉で整理したのが図5.2-2である。キャリア検出・ ビーコン識別・PLL追尾・低レートテレメトリ・通常運用は、それぞれ必要C/N₀が異なる。 設計段階で各段の敷居を知っておけば、受信レベルから「いまどの段まで可能か」が 即座に判断でき、復旧計画がその場の勘ではなく計算になる。
体制面では、異常時の役割分担(判断者・手順実行者・記録者)、全コマンドと 機体応答のログ、そして訓練が支えになる。シミュレータに異常を仕込んだ リハーサルを運用開始前に繰り返し、手順書が「読めば動ける」水準にあることを 確認しておく。手順書は書いた時点では仮説であり、訓練で初めて運用手段になる。
5.2.6 よくある疑問
Q. セーフモードの通信設定はなぜ「非コヒーレント」が多いのか?
A. 上りに依存しないからである。異常時は地上局がまだ気づいていない・ 上りが確立していない可能性が高く、機上だけで完結する下り(機上発振器基準)が 最も確実に「生存信号」を出せる。地上が上りを確立すればコヒーレントに遷移する。
Q. ブラックアウトの継続時間は設計できるのか?
A. 軌道(突入速度・経路角)と機体形状でほぼ決まり、通信側で消すことは できない。通信設計ができるのは「その間のデータをどう残すか(記録・中継・ビーコン)」 と「回復後の再捕捉をどれだけ速くするか」である。
- セーフモード回線は「事前に計算で保証された最後の階段」。ビーコンから復旧が始まる。
- EDLはf_p>fの物理的遮断。介入でなく記録・中継・トーン通報で設計する。
- 着陸機は近距離UHF中継が主経路。距離2乗の物理を味方につける構図。
- 複数機時代は「誰がコヒーレントか」の管理が新しい運用課題。
第5.3章環境・信頼性・システムトレード
通信系は単独では存在しない。放射線・熱・電力・質量という機体全体の制約の中で 成立させる作法と、修理不能を前提にした信頼性設計の定石を学ぶ。
5.3.1 放射線 — 見えない劣化と突発事象
宇宙放射線の影響は2種類ある。トータルドーズ(TID)は累積劣化で、 半導体の特性をじわじわ変える(LNAの雑音悪化、発振器のドリフト)。 シングルイベント(SEE)は1粒子による突発事象で、メモリ反転(SEU)や ラッチアップを起こす。通信機器では受信機の設定レジスタ反転が 「原因不明のロック外れ」として現れることがあり、 定期的な設定再ロードやECCメモリで防御する。部品は耐放射線品を使い、 解析(遮蔽厚と軌道環境)で寿命ドーズを予算化する。
5.3.2 EMC — 自分の機体は雑音源
探査機内では電源スイッチング・モータ・ディジタル回路が広帯域雑音を撒く。 受信帯に自機雑音が入れば、どんな低雑音設計も台無しになる。 設計段階の放射・伝導エミッション管理と、システム統合後の 自己適合性試験(全機器動作状態で受信感度を確認)が必須である。 送信側も高調波・スプリアスが他系(観測機器)を妨害しないことを確認する。
5.3.3 熱と周波数安定性
TWTAの排熱(第4.1章)だけでなく、温度変動そのものが通信性能に効く。 発振器の周波数は温度で動き(第3.3章の時刻ドリフト)、トランスポンダ群遅延の 温度依存は測距バイアスになる(第3.1章)。恒温槽・ヒータ制御・熱設計との インタフェース調整は、通信系の性能保証の一部である。
5.3.4 電力・質量とのトレード
通信系は機体の電力の大口消費者である。RF 20 W(効率60%)はDC 33 W、 観測しながら送信する運用では電力収支が設計を縛る。 「RF電力を上げる/アンテナを大きくする/符号を強くする/パス時間を増やす」は すべて同じマージンを買う手段であり、電力・質量・運用コストの通貨で比較する のがシステム設計である(第1.2章Q&A)。アンテナの展開機構は利得と引き換えの 信頼性リスクとして評価に含める。
5.3.5 信頼性設計の定石
故障率λの機器を2重冗長にすると、両方壊れる確率は(独立なら)λ²のオーダーに落ちる。 ただし共通原因故障(同じ設計欠陥・同じ環境ストレス)は冗長で防げないため、 FMEA(故障モード影響解析)で単一故障点と共通原因を洗い出し、 クロスストラップ(第4.1章)・異種冗長・動作待機の別で対策する。 「受信系は常時2台オン」「LGA系は最小部品数」のような通信系の定石は、 すべてこの解析の帰結である。
冗長方式の選択には定型の判断軸がある。待機の温度(ホット/ウォーム/コールド)は 切替時間と、通電による劣化・被曝のトレードであり、同一冗長か異種冗長かは 共通原因故障への耐性と開発コストのトレードである。さらに機器冗長(同じ箱を2つ)だけでなく 機能冗長——HGAを失ってもLGA+低レートで任務の最低限を続ける縮退運転——を 設計に織り込むことで、「壊れ方に段階を持たせる」ことができる。
| 方式 | 切替時間 | 待機系の状態 | 典型用途 |
|---|---|---|---|
| ホットスタンバイ | 瞬時〜秒 | 通電・同期動作(劣化も進む) | 受信機(常時2台オン) |
| ウォームスタンバイ | 秒〜分 | 通電・低機能状態 | 発振器(安定化に時間がかかる機器) |
| コールドスタンバイ | 分〜(ヒートラン含む) | 非通電(劣化・被曝を回避) | 送信機・TWTA |
一方で冗長にしない判断も設計である。ダイプレクサ・スイッチ・アンテナ等の 受動部品は、冗長化のためのスイッチ自体が新たな単一故障点と損失を持ち込むため、 むしろ実績部品・ディレーティング・検査の徹底で「壊れない側」に投資する。 冗長は故障率を下げる手段ではなく、故障しても任務を失わないための手段であり、 何を冗長にし何を頑健にするかの線引きがFMEAの実務である。
切替の主体も設計事項である。深宇宙では往復光時間のため地上介入が数十分〜時間単位で 遅れるので、FDIR(故障検知・隔離・復旧)の相当部分を機上autonomyに持たせる。 階層は「機器内の保護→サブシステム内の系切替→システムレベルの再構成→セーフモード」の順で、 下の階層で収まるほど任務への影響が小さい。ただし誤検知で健全系を切る事故を防ぐため、 検知条件は保守的に(複数条件の持続で判定)、復旧動作はまず安全側に、が定石である。
通信系固有の仕掛けがコマンドロスタイマである。一定期間(例: 数日)コマンドを 受信しなかったら、機上が自律的に受信構成——アンテナ、受信系、場合によりレート——を あらかじめ決めた順序で巡回する(図5.3-1)。上りが途絶する原因の多くは 「地上は送っているが機上の聞く構成が違う」ことなので、機上側が構成を変えながら 待ち続ければ、地上の再捕捉試行といつか噛み合う。コンティンジェンシー運用(第5.2.5節)の ブラインドコマンディングは、この機上動作と対になる地上側の動作である。
5.3.6 よくある疑問
Q. 通信系の設計で、他系との調整が最も重い項目は?
A. 実務感覚では ①電力(送信時間×消費電力の収支)、②熱(TWTA排熱と 温度安定性)、③構造・機構(アンテナ搭載位置と視野、展開)、④EMC(全機器との相互)。 回線計算が閉じても、これらが閉じないと搭載できない。
Q. 冗長系はどうやって「切り替える」のか?
A. 地上コマンドが基本だが、コマンドが届かない故障に備えて 機上の自律故障検知・切替(FDIR)を仕込む。ただし誤検知での不要切替も リスクなので、「自動で切るもの/地上判断に残すもの」の線引きが設計判断になる。
- 放射線はTID(累積)とSEE(突発)。設定反転は通信異常として現れうる。
- EMC・熱・電力・質量の制約内で回線を成立させるのがシステム設計。
- 冗長はλ→λ²だが共通原因は消えない。FMEAとクロスストラップが定石。
- マージンを買う手段は複数ある。電力・質量・運用の通貨で比較せよ。
第5.4章計測器と現場スキル — 手を動かす技術
設計値は、計測器で測れて初めて実物の性能になる。本章はスペクトラムアナライザの読み方、 較正と試験系の組み方、探査機と局の適合性試験・登録点検、そして運用時のテレメトリ監視という、 試験室と運用室で実際に手を動かすための技術を扱う。
5.4.1 スペクトラムアナライザ — 電波を「見る」技術
通信系エンジニアが最も長い時間向き合う計測器がスペクトラムアナライザである。 掃引型は入力をミキサで中間周波に変換し、分解能帯域幅(RBW)のフィルタを 周波数軸に沿って走査して電力を表示する。FFT型(シグナルアナライザ)でも表示の文法は同じで、 次の3つを押さえれば画面が読める。
第一に、表示ノイズフロアはRBWで動く。フロアは雑音密度N₀をRBWで積分した値なので、 RBWを1/10にするとフロアは10 dB下がる。信号のライン(搬送波など)はRBWに収まる限り動かない。 したがって「搬送波が床からどれだけ出ているか」はRBWを言わずには意味をなさない。 密度に換算した雑音密度マーカ(dBm/Hz表示)を使えばRBW非依存の議論ができる(図5.4-1)。
第二に、ビデオ帯域幅(VBW)と平均化。VBWは検波後の平滑で、雑音のばらつきを 均して読みやすくする(平均電力は変わらない)。第三に、入力アッテネータとミキサ飽和。 過大入力はミキサ内部で歪み、実在しないスプリアスを表示する。アッテネータを10 dB増やして スプリアスの相対レベルが動けば内部歪み、動かなければ実信号——これは現場の定石である。
変調スペクトルの健全性確認はこの応用である。残留搬送波方式なら、搬送波ラインと データ側帯波の電力差が変調指数の関数(J₀²など、第2.1章)になるので、 画面から変調指数を逆算して設計値と突き合わせる。帯域外の裾はスペクトルマスク (CCSDS 401.0-B)に重ねて適合を確認する。
搬送波ラインのマーカ読み: −90.0 dBm。雑音密度マーカ(dBm/Hz): −160.2 dBm/Hz。 よって C/N₀ = −90.0 − (−160.2) = 70.2 dBHz。 RBW 1 kHzの生表示では床は −160.2 + 10log(1000) = −130.2 dBmに見えている。 床の生値から10log(RBW)を引いて密度に直す——この換算を体で覚えておくと、 どのRBW設定の画面を見ても即座にC/N₀が出せる。
▶ さらに深く: スペアナの内部動作とRBW/VBW/検波の詳細はKeysight『Spectrum Analysis Basics』(AN 150、無料)が定番(付録C)。
5.4.2 校正と試験系 — 数字の信頼性は較正でできている
試験系の基本形は、信号発生器→アップコンバータ→方向性カプラ→供試体→ カプラ→ダウンコンバータ→測定器という鎖である(図5.4-2)。ここで数字の信頼性を 決めるのは供試体ではなく較正の側だ。要点は4つある。
①経路較正。試験の前後にスルー測定でケーブル・コンバータの損失を実測する。 同軸ケーブルは締め直し1回・温度数度で0.1〜0.2 dB動く。マージンを0.1 dB単位で議論する 世界では、較正記録がなければその測定は存在しないのと同じである。 ②絶対電力はパワーメータ。スペアナの絶対レベル確度は±1 dB程度だが、 熱型センサのパワーメータは±0.1 dB級。絶対値はパワーメータで押さえ、 スペクトルの形と相対値をスペアナで読む、と役割を分ける。 ③周波数は基準信号。全計測器を10 MHz基準に同期させる。基準が狂えば全部が狂う。 ④不確かさの合成。各較正の不確かさを独立項としてRSS合成する—— 第1.2章の誤差の作法がそのまま試験に現れる。
受信系の雑音温度測定にはY因子法を使う。温度既知の2つの雑音源 (常温負荷 T_h ≈ 290 K と低温負荷 T_c、または校正済みノイズソース)を入力し、 出力雑音電力比 Y = P_h/P_c を測ると、受信機の等価雑音温度は
で得られる。地上局全体のG/Tは、フラックス密度が既知の電波星(カシオペアA等)を 使った同じ発想のY因子測定で、アンテナ利得と雑音温度を個別に測らず比として一発で測る。 G/Tという指標が実務で好まれる理由の一つは、この「直接測れる」性質にある(第1.4章)。
5.4.3 適合性試験と登録点検 — 「つながる」ことの証明
探査機と地上局は別々に開発される。両者が実際に通信できることは、打上げ前に RF適合性試験(コンパチビリティ試験)で実物により証明する。フライト品の通信系と 局設備(または局と同一構成の互換試験装置)をRFで対向させ、 周波数掃引による捕捉(第2.3章)、変調指数、レンジングの折り返し、コマンド受理と CLCW応答、非常系低レートまで、運用で使う全モードをend-to-endで通す。 机上の仕様適合ではなく「この機体とこの局はつながった」という事実を残すのが目的である。
登録点検は局側の手続きで、新しいミッションのために局設備の設定一式 (周波数、変調・符号フォーマット、レンジング設定、SLE/SDTP接続先)を登録し、 点検項目に沿って動作を確認する。局は多数のミッションが共有するインフラであり、 パスごとに設定を切り替えて動くため、ミッション固有の設定ファイルが検証済みであることが 運用品質の前提になる。海外局を借りる場合も同種の試験(station readiness test)を行う。
打上げ直前には局のチェックアウトと初捕捉リハーサルを行う。打上げ後の軌道不確定を 模擬した広めの掃引範囲・ドップラプロファイルで「初めて聞こえる瞬間」の手順を 予行しておく——第5.1章の運用タイムラインは、この準備の上に成り立っている。
試験構成の要は距離模擬である(図5.4-4)。実際の空間損失(例: 270 dB超)を そのまま作ることはできないため、較正済みの可変減衰器で受信レベルを運用相当に落とし、 減衰器を振って受信閾値(どこまで弱くても捕捉・復調できるか)を実測する。 結合は直結(ケーブル)と放射(アンテナハット・電波暗室)を使い分け、 直結では経路較正値、放射では結合損失の較正値が測定の信頼性を決める。
標準的な試験項目は次の通りで、各項が本書の設計値と一対一に対応する。
| 試験項目 | 測るもの | 対応する設計値 |
|---|---|---|
| 受信閾値 | 捕捉・追尾維持の最小受信レベル | 上り回線の最悪C/N₀(第6.2.5節) |
| 掃引捕捉マトリクス | レベル×掃引速度の捕捉成否 | 掃引設計(第2.3.9節・2.3.11節) |
| BLF・引き込み範囲 | レスト周波数とロックイン幅 | 掃引範囲予算(図2.3-3) |
| コマンド閾値 | 閾値近傍でのコマンド受理率 | TC回線の設計点(第2.5章) |
| テレメトリBER/FER曲線 | Eb/N₀対誤り率の実測 | 理論曲線+実装損失(第2.2章) |
| 測距群遅延 | トランスポンダ遅延と安定性 | RARR誤差バジェット(第3.2.8節) |
| 変調指数 | 実測位相偏移 | 電力配分設計(第2.1.10節) |
| スプリアス・帯域外 | 送信スペクトルの適合 | マスク(401.0-B)・免許記載値(第6.2.9項) |
特に重要なのがテレメトリ誤り率曲線と測距群遅延である。前者は理論曲線との差 ——実装損失——を数値で確定させ、回線計算書の該当行を実測に置き換える (第5.5.1節の成熟プロセスの実例)。後者はRARRの系統誤差の較正値そのものであり、 この1点の測定品質が軌道決定精度に直結する。適合性試験は「つながるかの確認」を超えて、 設計書の数字を実測で確定させる最後の機会として計画する。
海外局を使う場合は相手機関の適合性試験プロセス(DSNなら互換試験施設での 事前試験と局での確認)に載る。フライト品を海外へ持ち出せない場合に備えて、 トランスポンダと同一構成のEM(第5.5.2節)を試験に充てる計画も早期に決めておく。
5.4.4 テレメトリ監視 — 異常は傾向に現れる
運用中の監視は3層で考える。リミットチェック(黄/赤の閾値超過アラーム)は 最後の網であって、実際の異常の多くはその前にトレンド(経時変化)と 相関(複数テレメトリの整合性)に現れる。
通信系の定番監視点は次の通り。機上側: 受信AGCレベル(=機上での受信電力。 上り回線計算と直接比較できる)、受信機のキャリアロック状態、静的位相誤差 (SPE。周波数オフセットの指標)、送信機の出力・ヘリックス電流・温度。 地上側: 受信AGC、システム雑音温度(SNT)、シンボルSNR、フレーム同期状態と誤り数。 これらは回線計算書の各行に対応する実測値であり、予測との差分こそが監視の本体である。
一次切り分けの定石を図5.4-3に示す。受信レベルが下がったとき、SNTが同時に上がって いれば伝搬(雨)、機上テレメトリに異常があれば機上、どちらでもなければ地上設備—— という順で疑う。判定の基準線は常に回線計算の予測値である(第6.2章)。
下りAGCが平常より2.3 dB低い。地上SNTを見ると平常20 Kに対し60 K(+40 K)。 T_sys比で 10log(60/20)…ではなく、システム全体では10log((T₀+40)/T₀)を評価する。 T₀ = 150 Kなら雑音は10log(190/150) = 1.0 dB上昇。仰角は32度で雨天。 降雨減衰1.3 dB(第1.5章の係数から)+雑音上昇1.0 dB ≈ 2.3 dBで説明がつく—— 機上・地上とも正常、伝搬が主因と判定し、レート維持可否を回線余裕で判断する。 「二重の劣化」(第1.5章)が監視画面にそのまま現れた例である。
トレンド監視の価値は劣化の早期発見にある。TWTAヘリックス電流の月単位の漸増、 USO周波数のドリフト率の変化、同一仰角・晴天時のSNTの基線変化—— どれも単発のリミット超過より早く異常を教えてくれる。リアルタイムの クイックルック(QL)と、全データを使うオフライントレンド解析の両輪で回すのが実務である。
5.4.5 よくある疑問
Q. スペアナとシグナルアナライザは何が違うのか。
掃引型スペアナは電力の周波数分布だけを見る。シグナルアナライザ(VSA)は帯域内を
一括サンプリングして位相情報まで持つため、変調解析(コンスタレーション、EVM)ができる。
変調品質の定量評価はVSA、広帯域のサーベイやスプリアス探しは掃引型と使い分ける。
Q. なぜ試験のたびに較正するのか。前回の値ではだめか。
ケーブルの締め直し・引き回し・温度で0.1〜0.2 dBは平気で動く。回線マージンを
0.1 dB刻みで積み上げる設計(第6.2章)では、較正の鮮度がそのまま結論の信頼性になる。
「較正記録のない測定値は使えない」が審査の原則である。
Q. 登録点検はなぜミッションごとに必要なのか。
局は共有インフラで、周波数・符号・フォーマット・接続先がミッションごとに全部違う。
前のミッションで動いた局が、設定ファイル1行の違いで次のミッションでは受からない。
「局が正常」と「この設定で正常」は別の命題であり、後者を確認するのが登録点検である。
- スペアナの床はRBWで動く。密度マーカ(dBm/Hz)で読めばC/N₀が直接出る。
- 絶対値はパワーメータ、形はスペアナ、雑音温度はY因子法——計測器は役割分担で使う。
- 較正記録のない測定値は存在しないのと同じ。経路較正は試験の前後に必ず取る。
- 適合性試験・登録点検は「この機体とこの局が、この設定でつながる」ことの証明。
- 監視は予測との差分で行う。回線計算書が運用診断の基準線になる。
第5.5章開発の工程 — 設計から打上げまで
通信系の設計は、プロジェクト全体の開発工程——フェーズ、レビュー、モデルフィロソフィ、 試験の階段——の中で進む。本章はシステムズエンジニアリングの流れを通信系の視点で追い、 「いつ、何を、どこまで固めるか」の相場観を作る。
5.5.1 フェーズとレビュー — 設計は段階的に凍結される
宇宙機開発は概念検討→概念設計→基本設計→詳細設計→製造・試験→射場・運用と 段階を踏み、各段の出口に審査(レビュー)が置かれる。代表的なゲートは、 システム要求審査(SRR)、システム定義審査(SDR)、基本設計審査(PDR)、 詳細設計審査(CDR)、認定試験後審査(PQR)、出荷前審査(PSR)、 打上げ準備完了審査(LRR)である。名称は機関により異なるが、 「後戻りできない決定を、根拠が揃った段階で順に凍結する」という構造は共通している。
通信系にとって各レビューは回線計算書の成熟度の締切である(図5.5-1)。 SDRまでに周波数帯・アンテナ構成・地上局系という「取り返しのつかない選択」を固める (周波数は国際調整のリードタイムが年単位——第6.2.9項)。PDRでは変調・符号方式と 3値の回線計算書(第6.2章)、CDRでは全損失項の公差の根拠と試験計画、 PSRでは実測値を反映した最終計算書が問われる。設計書の数字が 「仮定→根拠つき公差→実測」へ置き換わっていく過程こそが、開発の進捗そのものである。
要求は上から下へ流れる: ミッション要求(データ量・運用制約)→システム要求 (回線成立・質量・電力配分)→サブシステム仕様(EIRP・G/T・レート段階)→ 機器仕様(出力・NF・損失)。試験はこの逆で、下から上へ検証を積み上げる—— いわゆるV字の構造である。左辺で決めた各要求に対し「どの試験で検証するか」を 対応づけた検証マトリクスが、V字の左右を結ぶ管理の背骨になる。
5.5.2 モデルフィロソフィ — 何台つくるか
開発する機体・機器を何台つくり、それぞれに何を負わせるかをモデルフィロソフィと呼ぶ。 典型は、方式検証のBBM(ブレッドボードモデル)、設計検証のEM(エンジニアリングモデル)、 認定試験専用のQM(認定モデル)、そして飛ぶFM(フライトモデル)である。 QMには認定試験(QT)——設計の余裕を証明するため、予測環境より厳しい条件 (たとえば温度で±10℃、振動で+3 dB相当)を長い時間かける——を課し、 FMには受入試験(AT)——製造欠陥の検出が目的で、条件は認定より緩く時間も短い——を課す。
深宇宙機で多用されるのがプロトフライト方式(PFM)である。QM専用機を省略し、 1台の機体に「認定レベルの条件×受入レベルの時間」を課して、そのまま飛ばす。 コストと日程は大きく浮くが、飛ぶ機体に余計なストレス履歴を残すリスクを引き受ける—— 1品生産の科学衛星がこの方式を選ぶのは、リスクとリソースの計算の結果である。 通信系機器では、新規設計のTWTAはQMで認定し、実績設計のトランスポンダはPFMで済ませる、 といった機器ごとの使い分けも普通に行われる。
5.5.3 試験の階段 — 単体からシステムへ
試験は機器単体→サブシステム→システム(機体)の順に積み上がる(図5.5-2)。 下流ほど1日あたりのコストが大きく、不具合修正の代償(分解・再試験)も大きいため、 「その階層でしか見つからないもの」に各階層を特化させるのが工程設計の要諦である。 機器単体では性能の全数値と環境耐性を取り切る。サブシステムでは機器間I/Fと 通信系一式としてのRF性能(EIRP・G/T・スプリアス)を確認する。 システムでは「機体として正しく配線され、他系と共存して動くか」を見る。
| 試験 | 目的 | 通信系で特に見るもの |
|---|---|---|
| 電気試験(EIT) | 極性・配線・I/F・機能の確認 | 系統図どおりの経路確認、冗長切替の全パス、コマンド/テレメトリ全項目疎通 |
| 振動・衝撃・音響 | 打上げ環境の耐性 | 試験前後のRF性能比較(共振によるケーブル・コネクタ損傷は性能差に出る) |
| 熱真空(TVAC) | 軌道熱環境での機能・性能 | 高温/低温プラトーでの出力・NF・発振器周波数、温度係数の実測取得 |
| EMC試験 | 電磁的な共存(第5.3.2節) | RE/CE/RS/CSに加え、全機器動作状態で受信感度が落ちないか(自己適合性) |
| 質量特性・アライメント | 質量・重心・指向基準 | HGA電気軸と姿勢基準のアライメント(指向損失の原点、第1.3章) |
| RF適合性試験 | 局との end-to-end 実証 | 全運用モードの疎通(第5.4.3節) |
環境試験の並び順にも定石がある。振動・衝撃を先に、熱真空を後に置くのは、 機械環境で生じた微小な損傷(コネクタの緩み、半田クラック)が温度ストレスで 顕在化するのを捉えるためである。また熱真空中の機能試験は、単なる動作確認ではなく 実測の温度係数を得る場でもある——発振器の周波数対温度、送信出力対温度は、 軌道上のテレメトリ解釈(第5.4.4節)の較正データになる。
試験で仕様を満たさない結果が出たら不適合処理(NCR)にかける。原因究明の上で 「修理して再試験」「そのまま使用(ユースアズイズ)」「仕様側の変更」のいずれかを 審査で決める。ユースアズイズの判断根拠になるのが回線マージンである—— 「出力が仕様より0.3 dB低いが、最悪ケース回線でもRSSマージンが正」という論法は、 3値の回線計算書(第6.2.6節)があって初めて成立する。
5.5.4 射場から初期運用へ
射場では輸送後の健全性確認、推進系充填等と並行したRF最終確認、そして フェアリング結合後の限定的なチェックが行われる。結合後は機体に直接触れないため、 アンビリカル経由とRF窓越しの確認が最後の手段になる——「フェアリングを閉じる前に 何を確認し終えるべきか」は射場作業計画の重要な設計項目である。
打上げ後の初期運用(LEOP・クリティカル運用)で通信系は最初の主役になる。 分離直後の初捕捉(リハーサル済み——第5.4.3節)、太陽電池展開の確認、 HGA展開・指向確立、レート段階を上げながらの回線確認、と進み、 各ステップの成立条件は打上げ前にすべて回線計算で予告されている。 初期運用の数日間は、本書で学んだ全章が数時間刻みで順番に登場する期間であり、 通信系エンジニアの仕事が最も凝縮された時間でもある。
5.5.5 よくある疑問
Q. なぜ認定試験は「わざと厳しく」かけるのか。実環境で十分では?
予測環境それ自体に不確かさがあり、機体ごとの製造ばらつきもあるからである。
「予測+マージンの環境で壊れない設計」を1回証明しておけば、以後のFMは
受入レベルの試験で済む。認定は設計への投資、受入は個体の検品と考えると整理しやすい。
Q. 通信系の不具合はどの試験で見つかることが多いのか。
経験則では、機能の作り込み不足はEIT、ワークマンシップ(半田・コネクタ)は
振動後の性能比較と熱真空、系間の想定漏れはEMCと自己適合性試験で出る。
裏を返せば、これらの試験を通っていない構成変更(ケーブル交換ひとつでも)は
リスクがリセットされる——「試験済み構成を崩さない」が製造・射場の鉄則である。
Q. スケジュールが遅れたとき、どの試験なら削ってよいか。
正解は「削る試験を選ぶ」のではなく「各試験が検証している要求に立ち返る」である。
検証マトリクス上で他の試験・解析でカバーできる項目だけが削減候補になり、
それをリスク審査で決める。マトリクスなしの削減は、検証されない要求を
見えないまま残す。
- レビューは設計凍結のゲート。回線計算書は「概算→3値→実測」とレビューごとに成熟する。
- 認定(QT)は設計の余裕の証明、受入(AT)は個体の検品。プロトフライトは両者の折衷。
- 試験は単体→サブシステム→システムの階段。各階層でしか見つからないものに特化させる。
- 熱真空は動作確認の場ではなく、温度係数という運用資産を実測する場。
- 不適合の「そのまま使用」判断は3値回線計算書の余裕が根拠になる。
第6.1章事例研究 — ISASの深宇宙機に学ぶ
ここまでの理論が実機でどう使われ、危機のときに何が探査機を救ったのかを、 ISAS(宇宙科学研究所)のミッションの公開情報から読み解く。 事例は理論を実感の伴う知識に変える。
| はやぶさ | はやぶさ2 | あかつき | |
|---|---|---|---|
| 打上げ/到達 | 2003/2010帰還 | 2014/2020帰還 | 2010/2015金星周回 |
| 上り | X帯 | X帯 | X帯 |
| 下り | X帯(S帯併用) | X帯+Ka帯(32 GHz) | X帯 |
| HGA | パラボラ(可動) | X/Ka 平面アレイ2枚(固定) | スロットアレイ平面 |
| 低利得系 | MGA+LGA全球 | MGA+LGA | LGA |
| 航法の要点 | ビーコン運用で危機を克服 | ΔDORで精密軌道決定 | USOで1-way電波掩蔽 |
| 特筆点 | 7週間の途絶から復旧 | Ka帯で大容量化 | RCSで軌道再投入 |
3機はいずれも本書第1.1章の非対称構成(強い地上・小さな機体)を共有しながら、 危機対応・大容量化・科学観測という異なる方向に通信系を鍛えた。以下、順に読み解く。